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本物の幸福論者の居場所はどこ。

とある幸せな人が、幸せな生活を送っている。

ただ、その幸せな生活が覆った時。その幸せな人が、幸せを感じなくなった時。それは、ただ現状が幸せなだけであって。環境が変われば不幸を感じる、環境に左右される小心者ではないのかなと僕は思った。

これが正しい、
だとは僕が断言したい訳では無い。

自分で「これが正しい」と決める事は出来る。「これが僕にとって正しい事」だと決めても。人とはズレた意見だったりする事もある。だけど、僕の意見も、他の人の意見も間違ってる訳でも無い。

『善』と『悪』は個人の匙加減で変わるし。社会やルールが変われば僕達の善悪の基準も変わる事がある。

だからこの話も一個人。僕の今考える幸せ者の定義。

『その人』は、誰が見ても不幸者だと見える筈なのに。『その人』は、自分を幸せ者だと思い、そう感じている人だったとしたら。

『幸福』の解釈は、心が満ち足りている状態。そうだとするのなら、他者の見え方なんて関係無くて。自身の心の状態がメインなのだと思う。

何も求めなくても、何も身の回りに無かったとしても。家族が居なかろうが、友達が居なかろうが、恋人なんて居なかろうが。心が満たされてるならその人は『幸福』に満ち溢れてる。

少し言い過ぎだと思うかも知れないけど。僕が言いたい事は、人の目も気にせず、自分の気持ちを正直に、素直に受け止められる人だと言いたい。

お金持ちになりたいとか、偉い人になりたいとか、モテたいとか。それを手に入れた先の事を考えた時。

お金持ちになったら自由になれて、欲しいと心が思える物が買える。偉い人になれば、人から褒められたり崇められる。モテた自分はどんな気持ちになってるんだ?とか考えてみる。

全部自分が幸せになりたいと考えた、理想の姿なんじゃ無いのか。心が望む、願望だと言う事かも知れない。逆に貧乏、凡人、モテなかった人は。世の中は不幸で、不平等だと感じてしまうだろう。

夢なんて叶わなくても、生きて行ける筈だ。叶わなかった時に、悔しさを感じるのも。「失敗の形」を自分で作り出し。自分で作り出した、幻想に負かされてる。

未来に、期待するって事は「自分にとっての善」を作る事で。反対に期待通りの未来に進まない事は「自分にとっての悪」になってしまう。

だから、何も目指さなくて、何も求めない。どんな状態の自分をも認められて、些細な生活に幸福を感じる者が、きっと本当の幸せ者かもしれない。

人生上手く行った人が「幸せです!」と言ってても。上手くいってるんだから、幸せなのは当然だろう?と思う。

逆に、明らかに他人から見て不幸に見える人なのに「幸せです!」なんて自発的に言えるのなら。どんな状況でも、幸せを感じてしまう。常に変わらない幸福感の持ち主だとなる。

でも明らかに他人から見て。不幸に見えるのに『幸を常に感じる人』を見つけるのは困難だ。それは世の中で成功なんて望まない人。その状態が成功だと感じていて。ましてやメディアには映らない人だと思う。

一体、この世のどこに。不幸者に見える、本当の幸せ者が存在しているのか?

僕は、この記事のタイトルに
『本物』と言う書き方をした。

でも、不幸を味わえない事。それも、
ある意味不幸な事だと言い始めたら、
それは『本物』じゃ無いかも、と思った。

単なる言葉遊び。

結局、人の価値観の匙加減。

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