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休職三週目 | やりたいことやったる編

1月中旬から適応障害で休職しているものです。休職三週目の目標は「やりたいをやる」。これまでは、回復のためになることをやろうやろうと、少しはりきってしまっている節があったので、ちょっと気を緩めようかなと。



自分を取り戻す音がした

火曜日、カウンセリングを受けるために銀座へ向かった。会社の健康保険組合に無料でカウンセリングを受けられる制度があると知り、『私に、私に早く精神療法を...!!』と勇み足で予約してあったものだ。けれども、白い百合の花のような、優しさと強さを醸し出されるその先生は、「あなたはまだ認知行動療法とか早いから、好きなことをしなさい。」と、穏やかにはっきりと言い放たれた。

こんなにも元気に日常をやっているんだから、私の傷は癒えたんだと、そう勝手に解釈してやっていたけれど、先生の言葉の端っこに、自分が無理やり傷口に蓋をして生きているだけだったことと、傷はまだそのままそこにあることを気付かされて、目から水がしとしとと垂れた。

それから『いやあ、先生、そう言いますけども、わたしゃ好きなことなんて何にもなくって、休みの日にはTwitterを見ながら枝毛を探して時間を溶かす人間なのですよ…』というやるせない気持ちがずるっと現れ、続けざまに『あれ…もしかして私って、好きなことがある…?私にも実は好きなことが…、ある…はず...?』と、好きという概念をはじめて教わったかのような新しい気持ちがほわっと湧き上がった。こう書いてみると、私の感情って忙しそうだな。白百合先生は、頷くようにやさしく微笑んでくれていた。

帰り道、銀座の通りを歩きながら、先ほど抱えた気持ちの後者の方、「実は私にも好きなことあるんじゃね疑惑」がぐつぐつと本当のことであるかのように思えてきて、また目から水がぼろぼろとこぼれた。銀座なのに。周りはオシャレな格好をしてしゃんと歩く人間まみれなのに。そんな人目も憚らず、私は私をやらせてもらった。

たしかに私は本来、普通の人類と同じように、好きなものがあったはずだった。何が好き?と問われれば答えられるものはあるし、家にも好きなことに関する持ち物がたくさんある。だけどいつからかそれらは、心地よい時間を過ごせたり、無性にやりたい気持ちが湧いたりするものではなくなっていて、「こんな自分になりたいから」とか「こんな良いことが得られるから」とか「これをやればリラックスできるはずだから」とか、何か理由や目的を持ったものに、知らず知らずのうちに置き換わってしまっていた。

それは恐らく、何者かになりたいあまり、何かを成し遂げなくてはと思うあまり、忙しなく日々を過ごしすぎるあまり、仕方なくそうなってしまっていたのだけど、防げるのは自分しかいなかったわけで。自分から湧き出る本当の"好き"という感情が見えない状態になってしまっていて、そのこと自体にも全く気付けていなかった。よく「楽しいはずのことを楽しいと思えなくなったら疲れている証拠」なんて言うけれど、恐ろしいことに私はここ数年もの間、ひっきりなしにその状態だったんだろう。

銀座を歩く私の中の私は、『しんどいよ!しんどいよ!』と、久しぶりに蓋が外れたのを喜ぶかのように、小さい体で大暴れしているふうだった。まだ全く傷は癒えていないけど、本当の私を取り戻せる音が、微かに聞こえた気がした日だった。

ちくちく、ぬいぬい

そんな、本当の自分を取り戻すことの意が少し分かった気がした私が、この週で見つけた楽しいことは"刺繍"だ。少し前のメンタル崩れかけの時、「これをやればリラックスできるはず」を求めて夜のユザワヤにふらふらと入り、蛍の光に追い立てられながらかろうじて手に取れた、黄色いお花の刺繍キット。暇だしな、と半ば義務感で開けて取り掛かってみたところ、これが思いの外楽しめた。

どこに糸を通すのが一番きれいに仕上がるだろうかと、狙いを定めてぷすっと針を刺す、しゅるしゅると糸を引いていくと、布の上に色が置かれて、徐々に図案が仕上がっていく。糸と布の触り心地は、幼い頃から身近だったアイテムなこともあって、私に安心をもたらしてくれる気もする。お気に入りの動画や映画を流しながら、温かい飲み物を小脇に、ちくちくぬいぬいする時間。確かに私はこの時間が好きだぞ、と思い抜くことができた。

小さい頃は、母の影響で裁縫オタクだった私。喜ばしいことに、その頃のオタク心を3割くらいは取り戻せたんじゃないだろうか。あわよくば、刺繍糸のコレクションを眺めてムフフと口元を綻ばせる刺繍オタクを目指したい。そうでなくとも、ちくちくぬいぬいすることが私の日常に溶け込んで、あったかい時間になってくれると良い。

久しぶりの活字中毒

小さい頃は、食品ラベルの裏側を端から端までなぞるほどの、絵に描いたような活字中毒っ子だった。もらった国語の教科書はその日のうちに読んでしまいたくなった (なんとなくいけない気がして我慢していた) し、週末は父にくっついて図書館に通っていたし、ハリーポッターはもちろん書籍派で数年に一度読み返す習慣があった。

高校に入ったあたりから、部活や勉強に忙しく、読書の習慣はなくしてしまった。大学生になっても、社会人になってからも、あの頃の熱量が蘇ることはなく、それを本人も少しばかり寂しがっていた。読みたくて読みたくて仕方がないという感情、文字にのめり込んで世界を広げる感覚を、またもう一度味わいたいという微かな願いはあったものの、どんな本を開いても頭に入って来てくれず、新しい文字を入れる余裕が残念ながら私のどこにもなかった。

そんな私が仕事を休んで、脳に隙間ができたことによって、念願叶って本が読めるようになった。そしてお休みが三週目に突入したいま、文字が読みたくて読みたくてしょうがないあの感覚が戻ってきた。物語の海に飛び込みたい、新しい思考を摂取したい、文字と表現に溺れたい。語彙を豊かにするためにとか、知識を得るためにとか、将来の自分のためにとか、そんな事ではなく、読みたいから読みたい、読みたいものがある、という感覚が数年ぶりに戻ってきてくれた。

最近のお気に入りは、江國香織さん。表現が柔らかくてきらきらしていて、身を委ねて漂いたくなる文章。白い百合の花のようだった先生が「復職しても、江國香織さんの本を読めるくらいのペースで働けると良いですね」と仰った時、目から水がぼろぼろ流れた (さっきから泣きすぎ)。そうだね、そうなったらいいね、そうなれるように生きてこうかな。

***


見えなくなってしまうと、見えなくなってしまったことにも気付けない。私の好きは何にも侵害されるべきではなくて、私が全力で守らなきゃいけない。もう見失わないように、大事に大事に抱きしめて生きていきたい。そんな、あったかくて、ふわふわとした気持ちになれた、休職三周目だった。


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