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プールサイドの夫婦

masako

 三週間ほどの短い旅に理由がいるだろうか。先ばかり数えて生きるのを小休止するのに三週間はほど好い長さだ。
 私の旅は、深夜映画が連れてきた。深夜に観たモノクロの映画は、南仏の太陽をやわらかくキラキラ映した。モノクロなのに空が蒼かった。行ってみたい。ただ、そう思った。
 こんなふわふわした理由の旅なんて、おばあちゃんに叱られそうだ。でも、そのおばあちゃんもとうに死んでしまった。おばあちゃんが生きている間におはぎの作り方を教えてもらえばよかったと、この頃よく思う。

 パスポートと必要最小限のものだけ詰めた青リュックひとつ。行き先は南仏のアヴィニヨンにした。「アヴィニヨン」の発音で決めた。
 十六時間、空を飛びシャルル・ド・ゴール空港に着くと、日本人の団体とお別れのようだった。サヨナラ日本語。さようなら。バスでオルリー空港へ移動して、空港のトランジット・ラウンジで、ぼんやりと人を眺めていた。色んな人が色んなことをしている。クロスワードパズルを解いている人。リンゴを丸かじりしている人。小説を読みふけっている人。
 オルリー空港からカウモント空港へ、小さな飛行機で空を旅する。小さな飛行機の方がなぜか、ほっとするような気がした。私の横の席に、赤ちゃんを抱いた若いママが座った。若いママは手慣れた様子で、自分の座席ベルトにベビー用ベルトをつなぐと、赤ちゃんのおなかに巻いた。ベビー用ベルトを見るのは初めてで、興味深く眺めていたら赤ちゃんと目が合った。まつ毛が長く、くりんとしていた。前の席の二人の女の子たちがふり向くと「ママン」と言って、赤ちゃんのおもちゃを若いママに渡した。私はくすぐったくて、泣きそうになって、目をそらして、雲を見た。

 降り立ったカウモント空港は夕暮れ色を過ぎて闇夜が近づきつつあった。霧雨が電灯に照らされ、銀色の雨となって静かに降り注いでいた。
 青リュックをひとつ抱いたまま、私が突っ立っていると、空港の人にフランス語で何か言われた。覚えたてのつたないフランス語で答える。
「ウ エ ラ スタシオン ドゥ タクシ?……メルシーボクー」

 ホテルに辿り着いたのは何時だったのだろう。雨は本降りになっていた。果てしなく遠く続くような闇夜を、ホテルの淡いオレンジ色の明かりがぼわんと映している。
 熱い湯で満たしたバスタブに入り、私を温めた。髪を洗い、体を洗い、顔を洗い、歯を磨く。スローにスローに時差を埋めていく。
 ひとりで眠るには大きすぎるベッドに「ほぉっっ」と寝転がり、テレビを点けた。アニメが流れる。体ごとふわふわとフランス語に包まれて、私は眠りへと落ちていった。

 夜が明けると、雨に洗われた朝の空がキラキラ強く晴れていた。私の部屋の窓からは中庭とプールが見えた。深く深く大胆に深呼吸する。プールの水面で風が踊っていた。私のおなかはぺこぺこだった。

 食堂の、中庭を見渡せる一面はガラス窓で、朝陽が眩しいほど射していて最高だった。朝食はバイキング形式で、パンオショコラやクロワッサン、プレーンヨーグルトに色んな種類のシリアル、ドライフルーツ、日本のものと比べると小さめなリンゴ、ブルーチーズ、カマンベールチーズ、野菜ジュース、牛乳……元気の源が盛り盛り並んでいた。隅っこに卵を茹でる装置があり、しゃんっとしたおばあさんたちがすこぶる早口でおしゃべりしながら列を作っていた。
 私は深皿にチョコシリアルとたっぷりのプレーンヨーグルト、ドライフルーツも飾り、青リンゴ三つ、ブルーチーズもカマンベールチーズも欲ばって、うきうきと席に着いた。野菜ジュースをゴクゴク飲んでから、中庭を眺めつつ、黙黙とモグモグと時間をかけて、美味しく美味しく食べた。
 さて、何をしようか。どこへ行こうか。何をしてもいい。どこへ行ってもいい。私の心が静かになるまで、私の時間を私のために使うのだ。

 アヴィニョンの蒼い空を雲が優雅に泳いでいく。暇な私の目に過去がよぎる。尽きてく嘘をただ眺めていた。
 中庭の芝生を裸足で歩く。心地よい。さて、どこへ行こう。
 ホテルを出発して、いくつかの角を曲がって曲がって、長い道を歩いて、線路そばの坂を上ると、スーパーマーケットが建っていた。入り口に色んなアニメのキャラクターたちが並んでいる。その寄せ集めな感じが奇妙に仲間を匂わせていた。
 スーパーマーケットは、あらゆるものを売っていた。食料品、日用品、衣料品、雑誌やコミック、絵本や小説本、焼きたてのパン、カフェテリアに花屋もある。
 カフェテリアでホットチョコレートを一口、ほぉーっと和み、ホイップクリームがホットチョコレートに溶けていくのをじっと見る。ホイップクリームの山が少しずつ崩れてぺしゃんこになった。ホイップクリームのミルク色がチョコレート色に滲んで広がる。どこかで、こんな雲を見た気がした。こんなホイップクリーム雲を見た気がした。

 六ユーロで手に入れた水着を左手に、焼きたて雑穀パンのクリームチーズサンドイッチをほおばりながら、満足してスーパーマーケットをふり返った。相変わらず微動だにせず、寄せ集めなアニメのキャラクターたちが並んでいた。
 来た道を戻る帰り道。曲がる角を間違える度に、バス停の地図を頼った。明らかに迷子なのに迷ってる気がしないのは、なぜだろう。浮かれて強気で不安がないのは、なぜだろう。
 知らない地で、私はとても生き易さを感じた。迷いながらの帰り道。浮かれ歩く帰り道。帰ったらプールだ。心がはしゃいだ。

 昼下がりのプールは、葉っぱの音だけがした。学校のプールの記憶が塩素っぽい匂いを連れてくる。きらいじゃなかった。身体の外も内も消毒してくれる気がした。
 ホテル中庭のプールは、ただただ水の匂いがした。季節は初夏の初めの初めで、太陽がいないと肌寒くて、プールには私ひとりだった。
 大きすぎないプールの両サイドには寝そべる用の白い椅子が並んでいた。水面には、風に吹かれて落ちた葉っぱたちが浮かんでいた。
 私は底まで潜って潜水艦泳ぎをしたり、激しく大げさなバタ足泳ぎをしたり、斜めに円にデタラメに泳いだり、ぷかぷかぷかぷか浮かんだり、存分にひとり遊んだ。
 そろそろ部屋へ帰ろうか……と思った時、一組の夫婦がプールの木戸を開けた。
 先に入ってきたマダムが、プールサイドの白い椅子に赤ビキニの豊満なボディで寝そべった。ヒッチコック映画のケーリー・グラントみたいなムッシューは、そばの白い椅子で小説を読み始めた。
 二人は夫婦なのだろうか。
 昼下がりのプール、静かな時間が流れていた。

 どこにいても日常は生まれていく。
 アヴィニョンにて五日を過ぎた頃には、私の日常も作られてきた。早朝、寝惚眼な太陽と起きだし、歯をみがいて、顔を洗って、目を覚ますと、食堂へ一番乗り。バイキング形式の朝食をたらふく食べると、中庭のベンチでひと休み。散歩がてら、スーパーマーケットへ行き、カフェテリアでホットチョコレートを味わう。雑誌見たり、お菓子見たり、ウロウロしてからパンやさんへ行き、焼きたてパンの匂いを存分に楽しみながら、その日のサンドイッチを選ぶ。ホテルに帰ったら水着に着替えてプールへ飛び込む。プールでひとり遊びしてると、例のマダムとムッシューがやってくるのだ。
「ボンジュール」
「ボンジュール」

あいさつだけ交わす。私と夫婦は好ましい適度な距離感で、プールでの時間を過ごした。
プールを挟んで、プールサイドのあちらとこちら、私は白い椅子に寝そべりながら、顔に被せたタオルのすき間から夫婦を盗み見た。マダムとムッシューを観察するのも私の日常になっていった。
マダムは三十代後半の艶やかな女の人だった。豊満なボディ。赤いビキニ。うつぶせるときも、あおむけるときも、ゆったりした動作で上品だった。ムッシューは四十代後半の紳士だった。涼しげなシャツをクールに着て小説を読んでいる。ページをめくる、その指がセクシーに思えた。
マダムもムッシューもプールに入ることはなかった。ただそれぞれに、したいことをしていた。おしゃべりするでもない。それでも必ず、いつも二人だった。当たり前のように二人だった。
私はタオルの下から盗み見る。こんなに静かで嘘の匂いのしない光景があるだろうか。
葉っぱの音だけがするプールサイドの昼下がり。

夜が明ける前に目が覚めた。眠らなきゃいけない理由もないのでベッドを離れて窓辺へ行くと、すぐそこまで来ている朝の匂いが漂っていた。
青白いプールサイドに人影が見える。目を凝らす。目を凝らす。見たことのある少年がいた。食堂でパンオショコラやクロワッサンを運んでいた少年だ。彼は大きな網のついた棒を握ったまま、プールサイドの端っこから端っこへと歩いている。網が水面を走り、浮かびまくっている葉っぱたちを集めていく。
あー。そうなんだ。こうして朝の始まる前に葉っぱたちを集めていたんだ。
私の頭に昼下がりのプールが映る。風に吹かれ、また水面に散らばっちゃう葉っぱたち。
のどがクッとして、泣きそうになった。涙は出なかった。深呼吸して、空を見上げると、近づく朝を待つ空に白い月がキラリキラリ銀色を放っていた。
今日も変わらぬ朝が来てくれる。それは透明で、どんな色に染まるかは、わからない。白い月を触りたくて、両手を思いっ切り空へと伸ばした。私のおなかがぺこぺこだと鳴いた。

日常には気まぐれに、別の通り道が現れる。
プールの木戸はその日、すんなり開いてくれなかった。掛け金なんてあったかな……戸惑っていたら、後ろからセクシーな指が現れて、ポンっとあっさり戸を開けてくれた。
ふり返り見れば、マダムとムッシュー。
「メルシーボークー」
 言いながら、そばで二人を見て、知った。マダムとムッシューの当たり前なんかじゃない、慕い合って寄り添う雰囲気……ドキっとした。
 毎日のように、太陽に照らされているのに白く光るマダムの肌が眩しかった。

 透明な水の匂いに抱かれてプールに潜り、三週間が過ぎていた。デタラメ泳ぎで私の腹筋もむきむきだ。
 三週間と同じ分だけ、プールサイドの季節も進んだ。夏がいよいよ降りてきたら、このプールも大人気になるのだろう。その日も近い。人がじっと止まっていたくても、時間はずんずん過ぎていくから。
 プールに浮かんで空を見つめる。
 流れていく雲よ、どこへ行くの?何が待っているの?
 ぷかぷかぷかぷか浮かんでる私、どこへ行くの?
 指先がふやけて、プールサイドの白い椅子に寝そべる。まだマダムとムッシューは来ない。
 もう、マダムとムッシューは来ない気がした。夫婦のいないプールサイド。あの二人は夫婦だったのかしら。
 葉っぱの音だけが私とプールサイドにいた。

 そろそろ、そろそろと帰る時が来たようだ。
 三週間前に旅へ出発した私。何かが、がらりと変わるほどの劇的な出来事は、そう、ひとっつもない。それでも、ぽとりと残ったものがある。
 旅の思い出と言うには、日常に溶けすぎて、しれっとしたまま、プールサイドの夫婦は頻繁にまぶたの裏をよぎるような予感がする。
 案外逞しい私に、そっとうなずく。大丈夫だから。
 今日も空は果てしなく、果てしなく、宇宙の底へ広がっている。

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