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「話せばわかる」と信じるほど無邪気じゃなくなった私だが、それでも話すことはやめたくない。

私が大学で師事した先生が、内田樹さんと仲良しで。
親しくしているゼミの後輩が、夫婦揃って道場に通ったりしていることもあり、面識があるほどの間柄ではないが、内田さんの本やポストはわりとよく読んでいる。

最近、続けて気になる投稿があった。

兵庫県民のひとりとして、知事のパワハラ問題については、できるだけはやく、第三者的な見解を発表していただき、職員さんたちが安心して働ける状態にしてほしいなと願っている。ホントに落ち着かない毎日だ。

内田さんが、上記のようなポストをすると、
「この人、維新が嫌いだからね」
みたいな反応をする人が、一定数出てくるんだろうなと思う。
ベースにある考え方が維新支持派の人たちと内田さんとで違っているのは事実だろう。
けど、単なる「好きか嫌いか」で書いておられるのではない、と私は受けとめるし、そのへんのことも含めた話が、
「理解と共感」ベースでものごとをとらえるのはいい加減やめませんか? という提言なんだと思う。

斎藤さんが立候補した知事選挙。
かなり、どちらに投票すべきか迷った。
長すぎる井戸県政をチェンジする好機だという感覚は強くあったが、後継者と目される候補者でも、「別の人」だから変えていけるのではないか?
いやいや、若くてしがらみのない斎藤さんのほうが、ガラっと変えてくれるのではないか? 親しい友人たちと話しても、けっこう意見がわかれた。

結果、斎藤さんが「勝った」。

先日の都知事選でもそうなんだけど、
有権者が「選んだ」はずなのに、なんとなく候補者の「勝った」「負けた」の印象のほうが強くなってしまう。
選挙というプロセスがもたらす、独特の感情操作?

選ばれた者の責任として、最後までやり抜く

みたいなことを斎藤さんが主張しておられるのだが、
私は内田さんがすすめるように、いまのうちに自ら引いたほうがいいと思っている。あの日、いろいろ迷った末に彼に投票した人たちの「私が選んだ斎藤さん」という気持ちが、すっかり消え失せてしまわないうちに。
それが、「選ばれた」者の責任であり
このまま強硬に続けることは、「勝った」者の驕りのように見える。

そして、
内田先生の、誤解(誤読)を恐れぬポストはすごい。
武道をやっていない私とは、ホンマの本気で胆力が違う。

Xのように、共感できない人がウジャウジャいる場所で、理解も共感もできない人との共生するための姿勢を書くなんてーー!

半世紀も生きてしまうと、
「時間をかけて、腹を割って離せば、きっとアイツもわかってくれるはず」なんて青臭い考え方はできなくなった。
何度、それで裏切られてきたことか。
時間を使い、心を尽くし、結果がでなくて疲弊したことか。

だから最近は、
「あの人はムリ」と認定した人と鉢合わせても無視するし、そもそも出会いそうな場にはいかない。本音をいえば、共生なんてしたくない。

ただ、さらに齢を重ねるうちに、
そうは言っても、同じ地域で生きていたら、そういう人と一緒に・・・
助け合うとか共創するみたいなドリーミーなことは無理だとしても、公的リソースを分け合うくらいのことは、やるしかないと折れる日がくる。

いま、ちょうど、そのへんに来ている。たぶん。

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マンションの管理組合
理事長になって約9カ月。
何いっても通じない人が複数いる・・・。

「常識が通じないんだね、信じられない」
と嘆くのは簡単だけど、その人のせいで困っている人がいるのは事実。
ときには、匿名の「告発文」が理事長宛てに届く。
送り主の目星はついているみたいだけど、あえて名前を伏せて管理会社から報告されることもある。

噂好きの理事さんもいるので、気を抜くと犯人さがしに流されそうになることもある。が、大事なのは

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