うちの地元にうまい拉麺屋も不味い拉麺屋もない

あるのは今日ただ今この瞬間に一番好きな拉麺屋だけがあるのだ。今日数ヶ月ぶりに向かったのはホスピタリティの拉麺屋である。入った瞬間に客を不安に陥れることのない店。それがいかに稀有であるか。胸に手を当てて膝を地面につけて足裏を背中まで曲げてヨガポーズを取ったあとで考えてみるがいい。席を案内するホスピタリティ。それは気の利いたおろしニンニクのやわらかみ。あまり流行っていなくともセンスのよさだけは感じられる音楽を流すホスピタリティ。それは気の利いたシナチクのデザイン性。肩掛け鞄を。まさに首から回して外そうとするタイミングで持ち寄られるちょうどいい大きさのバスケットは、置きっ放しにしておいた方が業務コスト的には低いに決まっているのに、そっと足元に置かれるときの客は、エスコートされることの豊潤なエクストラリッチ感を味わうその一点において、あるいは荷物を持たない客の足元を広々と解放感で整えるそのもう一点において、ホスピタリティの極北を伝える。突起という突起の、痺れが収まらない。
「今月のレコメンド」という割にはシンプルな、「らぁ麺」としか名付けのないメニューは、ある意味セルフタイトルのアルバム作品であり、ビートルズにおけるホワイトアルバム、世代的には川本真琴を想起させて止まないが、ファーストアルバムでのセルフタイトルは単に初めましての名刺的要素が否めないので、しかし大滝詠一も、そもそもはっぴいえんども、ファーストでのセルフタイトルだけれど、とにかく名盤にはちがいなくとも、満を持して感があるのはホワイトアルバムなわけで、メンバー四人をシンボルにしてしまってタイトルとして、売るのにも買ったファンが感想を言うのにも困って結局「レッドツェッペリンⅣ」と呼ばれてしまう通称「フォーシンボルズ」はある意味セルフタイトルの変種。ビートルズは敬愛するけど、部位という部位を振って反応してしまうのはツェッペリンというわたしには、この「らぁ麺」はステアウェイ・トゥ・ヘヴンなわけである。だからわたしは。ためらいなく注文のコールをする店員さんに。わたしが呼びもしないのに隣にいる店員さんに、「ららららら、ああ、あめん、を小。」と、ほとんど「らぁ麺和尚」。
注文を成し遂げたあと、一服するわけでもないが、いつ来てもこの店には常連客らしき客がおり、前回はしゅっとした老婦人だったが、今回はこの商店街の一角に店舗を構えているらしきしっかりした女性で、カウンターに座れるのはおそらくそういった選ばれた人たちなのだろう。わたしは、時計を探すふりをして、覚束ない視線を彷徨わせながら店内の観察を実行する。ついたてを隔てた向こう側にも客がいる。「ミニチャーシュー丼」が届けられる。そんなのあったか、とメニューをあらためるになんと百円。百円。「三丁目の夕日」の表紙がわたしの脳裏に大写しされ、百円あれば、昔はデパートでぜいたくできたさおじさんが、ぱりっとしたスーツをいからせて登場した。わたしは粘膜という粘膜の急速な乾きを必死で押さえるため、色つきの水を何倍か呷って待った。
醤油ラーメンのはずだった。木のレンゲでひと啜り、こんなに濃厚な醤油スープなどあるはずがない。わたしは自分の舌を疑いながら、もう一口、もう一口をスープを啜った。濃厚だ。豚骨ならまだしも醤油でこの濃厚さを出すためにはいくつかの自然法則を逆手に取っているとしか考えられない。わたしは調理場を忙しく動いている店主につかみかからんばかりに鋭い眼差しを向けた。目が合った刹那、店主はにこやかに華やいだ。おそらくは話を逸らすつもりらしい。スープに漂う細麺はしなやか。かのカンダタもこの麺ならば悪事を重ねず、したがって天界まで辿り着けたことだろう。チャーシューはガンダーラの彼方に溶けて、タケカワユキヒデさんの英語の発音ほどに優しく包む。わたしはユーラシア大陸の西端、ポルトガルのロカ岬からニューヨークにいる和食通に、その総体としての旨さを大西洋越しに伝えたい思いに駆られるのだ。多すぎない量は午後からの業務へのホスピタリティ。平日五十円引きのキャンペーンは定番化していて、この店はそうだ、店員と客が会話をせざるを得ない仕掛けを意図的につくっている。
毛穴という毛穴を開いて、わたしは店外の空気を吸い込む。たった今店を出て自転車に乗り、赤信号を待っているその間にはや一度喰いたくなる。これは最上の褒め言葉である。あるいは、実際にやってみるとある程度気味悪がられる奇行である。それでも、ホスピタリティの拉麺屋は今この瞬間に私を誘う。再読を促す詩が価値あるように。再訪を促す拉麺屋は好きの証である。好きと好きは打ち消しあわない。好きの隣に好きを置けますように。意味は分からん。

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