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「チョウノスキー」という植物採集家のはなし

朝の身支度をしながら薄目で見ていた朝ドラ「らんまん」。

今日は、学歴のない牧野富太郎(モデル)が、自分の名前で研究を発表するのではなく、教授の助手にならないかと打診されるシーンでした。

要潤扮する教授は、牧野を説得するため、ある人を引き合いに出しました。

「マキシモヴィッチがなぜあんなにも日本の植物を手に入れられたと思う?助手がいたからだよ。彼の手足となって植物を採集していたのが、長之助という百姓だった。だからマキシモヴィッチは彼に敬意を表して、学名にもよく、チョウノスキーと名前を入れていた。」

チョウノスケ、こと「須川長之助」。
マキシモヴィッチ博士の裏方の存在として尽力し、学名に「チョウノスキー」という名をいくつも残したこの方、実は岩手県紫波町の名誉町民なのです。

紫波町の水分(みずわけ)地区出身の百姓・須川長之助は、19歳の時、出稼ぎに出かけた函館でマキシモヴィッチ博士と出会い、採集の助手として採集旅行に同行することとなります。時は黒船来航後、開港したばかりの幕末。外国人の立ち入りが禁じられていた各地では、博士の指示のもと、長之助が代わって採集に出かけました。

真面目で謙虚な長之助の人柄に惚れ込み、優秀な助手として信頼を寄せたマキシモヴィッチは帰国後も長之助に採集を依頼。「チョウノスキー」という名が織り込まれた植物は多くあります。チョウノスキーは長らくロシア人の名だと思われていましたが、まさかの日本人。「長之助」から来ているとはなかなか思うまい。

長之助が立山で採集したある植物を、新種として学名をつける前に、マキシモヴィッチ博士は他界してしまいます。その結果その植物の学名としてチョウノスキーがつきませんでしたが、のちに牧野富太郎が長之助の功績を讃え、和名として「チョウノスケソウ」と名付けました

植物学者でもなく農家であった長之助は、マキシモヴィッチの死後は農業に専念し、本格的な採集旅行に出ることはありませんでした。当時異人のもとで働き、さらにクリスチャンとなった彼に、周囲からの風当たりは強かったが、実直に生きた長之助は農業に励み、地の人との関係性もまた築き上げていきます。時に過酷すぎた採集旅行は冒険譚に満ち、のちに地元の子供たちに当時の物語を語り聞かせることもあったとか。

マキシモヴィッチ博士と長之助は師弟関係を超え人として尊敬し合い、信仰も共にする友好関係であったという。長之助の生き方にも惹かれる研究者は多く、岩手大学、岩手植物の会や地元水分地区の方々などにより業績は語り継がれています。

と、これは今日、紫波町図書館で開催中の展示で得たばかりの知識。

稀代の植物採集家(プラントハンター)須川長之助)」が
2023年7月27日(木)まで開催中です。
いやはや、植物学も何も知らない、なんなら牧野富太郎もドラマを見て初めて知ったという薄っぺらな私も、ついつい見入ってしまいました。

牧野富太郎が選ばなかった道、その先人にいた須川長之助。道のりが全く異なるのでその選択に良し悪しはないけれど、無名を貫く謙虚さもどことなく紫波町民らしさを感じる尊さがあります。

さて、今後「らんまん」に長之助はまた登場するのでしょうか。

「チョウノスケソウと名付けよう」というシーンが登場することを、紫波町民はひそかに期待しながら待っているとか、いないとか。

今は廃校になった旧・水分小学校の校舎にある「長之助草」のタイル絵

ロシア語と南部弁でコミュニケーションを取り合い、徐々に信頼関係を築いていった二人のやりとりに、想いを馳せる。

スピンオフドラマ作られて欲しいなぁ。
「マキシモ先生とチョウノスキー」。

岩手大学ミュージアムには「須川長之助コーナー」が常設されていますのでこちらもあわせてどうぞ。
〒020-8550 岩手県盛岡市上田3丁目18-8
入館料:無料
開館時間:10:00 - 15:00
http://www.museum.iwate-u.ac.jp/muzeum.../honkan_pre.html
隣接する植物園や、重要文化財である農業教育資料館(入館有料)なども見所たっぷりだそうです。ただしミュージアムは令和5年八月以降休館となるとのことなので、お早めに!

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