2024年、GW 母の徘徊がはじまる
毎週末、一人暮らしの母のところに帰省している。
そこそこ時間はかかるけど、高速バスを使って2時間半くらいで移動できる距離だ。GWは前半と後半帰省した。
GW前半(4/27~4/29)
母は自分の住んでいるところがわからなくなっていた。
以前住んでいた場所やその前に住んでいた場所と、混乱していた。
この兆候は4月からはじまっていた。
母は「自分のうちに帰る」と言った。
一緒に帰ろうと外にでると、「どこに行っていいかわからない」と言い、自宅に戻った。その時はどこに行っていいかわからないなら、徘徊はまだだろうと思った。
GW後半(5/3)
夜9時過ぎに実家に帰った。
家には犬しかいない。嫌な汗がでて、手が震えた。
慌てるな、冷静になれ、何度も自分に言い聞かせた。
家の中を探すも母はいない。心なしか犬たちも不安げ。
犬を庭にだすと、門のところに行き、外をみている。母の帰りを待っている。母がいない、はっきりと認識した。
すぐにGPSを確認した。市内にいる。比較的近くにいる。
電話をしてもでない。
自分の力ではもうどうにもできない、そう思うと警察に電話をするのも躊躇がなかった。
警察「どんな服装かわかりますか?」と聞かれる。
そんなのわかるわけがない…スニーカーだけ、家にないスニーカーの色とメーカーを伝える。
そうこうしているうちに母から電話がきた。どこにいるか聞くと「暗いところにいてわからない。でも家の近くにいる」と話す母。
警察が自宅にくる、と同時くらいに母が帰宅した。
母は「どうして警察なんて呼ぶの」と苛ついた様子だった。
警察には状況を説明し、名前や連絡先、顔、全身の写真を伝えた。
これで母は警察に認識された。
翌日(5/4)
母は朝からでかけると準備をしていた。
どこに行くのか聞くと、「友達に会いに行く。いろいろ相談したいことがあるから。ほっておいてちょうだい」と言った。
母の認知症を認識してから、絶対に自分を犠牲にしてはいけない、そう言い聞かせてきた。この先、24時間監視ができるわけではない、これが平日、仕事中なら、わたしは動けない。
友達と会っている時間に何度もGPSを確認した。
でかけている…家の付近にいる。それならまた帰ってくるだろうと思った。
次に確認した時には、駅にいる。まずい、電車に乗ったらどうしようと思い、友達と別れ、駅にむかった。すぐに母をみつけた。
母は「どうして、見つかっちゃうのかしら」と不思議そうに言った。徘徊というより、逃亡しているつもりなのか。
家に帰ると書き置きがあり、「探さないでください。もう疲れました。申し訳ございません。名前」のメモがあった。どこか迷惑をかけていると思っている母の気持ちがそのメモから伝わってくる。
ここでもうひとつの事件が起きる。
30年間行方不明だったいとこ60歳が腐敗した状態で発見されたと親戚、その母82歳から連絡がはいる。
また何かわたしの任務が増えるのか、吐きそうだ。そう思いながらも親子でもどうもできないこともあるのだ。そう自分に言い聞かせた。
(5/5)
見守りカメラを買いに行く。
いままでは、監視するようなことをしたくないし、自分自身も疲れてしまうだろうと思っていたので、カメラを置くことをさけていたけど、置くしかないと思った。設置する。母はこれはなんだとしつこく聞く。インターネットの機械でこれは世界とつながっているから触らないでと説明する。まぁそんな説明はすぐに忘れてしまうだろう。どうか設置場所をずらしませんように。
(5/6)
わたしは前々から予定していたゴルフの試合があったので、でかけた。
気になって、GPSを何度も確認した。
母が電車に乗っている!
気が気でなかった。吐きそうだと何度も思ったけど、とにかく試合を最後までやろうと思った。この先何度もこうゆうことがあって、そのたびに何かを途中でやめることはできない、そう自分に言いきかせた。
試合が終わって、着替えることもなく、すぐ車に乗った。
スマホを持つ手は震えていた。
車の運転はできるだろうか、不安だった。
落ち着け落ち着け、何度も自分に言いきかせた。
見守りカメラに問いかけ、犬がいることを確認し、まずはほっとした。
とにかく家に帰ろう。
家に帰るともちろん母はいない。電話はでない。
今回も迷いなく最寄りの警察署に電話をした。
すると110番をするよう促された。
そのほうがすぐに動けるとのことだった。
110番する。この時、状況を説明しながら、わたしからどっと涙が溢れてきた。
そうこうしているうちに、母から電話があり、最寄りの駅に戻ってきたことがわかり、改札にいるように伝え、すぐに警察に保護された。
今回は見守りカメラがあったので、服装をすぐに伝えることができた。
GPSは時差はあったものの、場所は正確性があることがわかった。
同時に地域包括センターに電話をする。前々から行こう行こうと思っていたけど、後回しにしてしまっていた。状況を説明し、自宅に来てくれることになった。母は刑事に保護され、パトカーではなく警察の車両に乗って帰ってきた。それと同時くらいに地域包括センターの方々の自宅訪問、そして面談。
健康そのものの母は、背筋もしゃんとして受け答えもまともだったものの、繰り返し同じ話をする母に短期認知力の低下はすぐに伝わった。
まずは、近くの病院に診療に行くこと、それができないなら在宅診療をする流れとなった。
みな口を揃えて、警察、包括センター、民生委員、近所の方々の連携が大事だと話す。その温かい言葉に、自分の力では限界だと受け入れることもできた。
そして、このあと、母はプライドが傷ついてのか、覚醒する。
「人のことをバカにしている」「めんどくさいことするな」「あなたを生んで損をした」「二度とくるな」「もう疲れた」何度もわたしに向けて毒を吐く。あぁ、そうだ母はそうゆう人だった。腹も立つが、母が戻ってきた、と思った。母が一番苦しんでいるのだ。
母よ、どんなにわたしを生んだことを後悔しようが、わたしは見放さない。
今のところは帰ろう。また仕事がはじまる、切り替えていかないといけない。GPSもある、カメラもある。みんなの連携もある。
できないことはできない、あきらめも肝心なのだと言いきかせた。
また時間とともにこの状況に慣れていくだろう。
いままでもそうだったように。
何度も何度も自分の精神状態と向き合った。
胃が痛む。吐きそう。
何度もそう思った。
それでもわたしは吐かずに、
物事をいつもよりは遅くだけど仕事ができている。
なんとか飲み物を飲み、食べ物を食べる。
いつもより小さいが声しかでないけど、絞り出せる。
まだ大丈夫。わたしはまだ大丈夫だ。
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