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強く、柔く、温かい。

先日、私が産まれる前から私を知っている整体師さんのもとへ訪れた。
通院は上京をきっかけに途絶えていたので
約3年ぶりに先生に会った。

骨を折ったとき、頭痛外来に掛かっているとき、
高校・大学受験のとき、と
私の身体を私より知っていると言っても過言ではない、第二のおばあちゃんのような存在である。

久々に会う先生は驚く程に変わっていなかった。
御年84歳の、優しくて頼もしい空気を以前の記憶のままに持って私を迎えてくれた。

「大きくなったね」

という第一声も変わっていなくて、いつもなら「そんなことないけどなぁ」と思うところを、そのときばかりは嬉しいような、寂しいような気がしてしまった。

何せ以前の(恥ずかしい)記事から分かるように不安定な気質なので、自分を知る大きな存在を前にしたら
それだけで安心して、揺さ振られてしまった。
きっと先生にとってはいつもの治療だったろうが、
私にとっては身体だけでなく心まで整えられる時間だった。

先生の懐かしい、
強くて柔らかくて温かい手が
自分に「大丈夫」だと言ってくれているような気さえ、してしまった。

焦るばかりで進んでいなくて、
その不安からさらに歩けなくなって、
そんな情けない姿も分かっているけれど自分でもどうしようもない時が多い。

逃げだと思う。
皆が前向きにやれてることが、どうしてこんなに辛いんだろう。
そればかりに囚われて、このまま進めず見つけられないなら、いっそ、と想像してしまう。

私の小さな生き辛さに理由が付いたら。
長く悩む偏頭痛も、疲れて動けない日も、
気分に振り回されるのも、
綺麗な空が見れたとき、全て吹き飛んでしまうのも。

貴方はHSPだから、と言われれば楽になるのに
なんて、これまた「逃げ」で「甘え」のように、縋る。
この気質に名前が付いたところで
生き辛いことにも、私にとって面倒な気質でもあることにも変わりがないのに。
上手く扱う人がいることを知ったが
果たしてそれが自分に当て嵌るだろうか、
世界はそこまで優しいだろうか、とまた嫌な自分が見えてしまう。


施術中、
頼もしく「また背骨のバランスが崩れてたけど治しておいたから!」と声を掛けられた。
いつもと違ったのはその後の、

「息し辛かったでしょう」

という言葉だった。
それは肺を圧迫されていたから、との物理的(?)な理由からだったが、そのとき弱っていた私には労りに聞こえた。

「身体なんて皆違うの、何でもアリよ」

と続けて笑う先生が、そこに私が取った意味がないことを知っているけれど、本当に好きだと思った。

毎日進もうとするだけで精一杯だけど頑張ったんだよと大学生とは思えないことを言い出したかった。
ぐっと堪えて、最後には大きな感謝を込めて、
「ありがとう」と「また来ます」
を伝えた。

結局情けない部分はここに吐き出してしまった訳だけれど、次に会う機会にまた

「大きくなったね」

を言ってもらうために、今日もここを使わせてもらいます。

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