さて今日のテーマは…何だろう?
今日は暑いですね。ここまで天気が変わるともう熱中症を含む体調不良に注意、ということになりそうですよね。正直少し辛いなと思い始めています。今日は昨日(読まれていない方はそちらから読まれるのをお勧めします)の続き、2016年の私、後編をお送りする予定ではありますが、脱線もしそうなのでテーマは敢えて設けていません。
前回のまとめ(クリスチャン関連のみに絞る)
大学の卒業研究中に担当教員との人間関係が複雑になる体験をした私は、非常に困惑し現実逃避をした。その時に支えとなっていたのは母だったが、それと同時にある大学の先輩に導かれ教会に行くことになった。そして教会で祈る中でその関係がスルスルと元通りになっていき(担当教員からの非を認める連絡があった)、凄いことが知らない所で起きたという印象を受けた。その後、春のバイブルキャンプに参加し、参加者全員で1つの心で主を賛美するこの様子に心打たれ、私は洗礼を受けるべきだと感じた。そして5月下旬に洗礼準備クラスを受講し、7月末に洗礼を受けた。そして約10日後、夏のバイブルキャンプ(奉仕としてテント組み立てから携わった)でダンス賛美を披露した。
ダンスチーム or 聖歌隊
私は昨日の記事にも書いた通り、日本舞踊はやったことがあるもののこういう、ダンスは未経験ゾーンだった。日本舞踊の拍の取り方とこのダンスの拍の取り方の違和感、そして圧倒的に私のアマチュア感がぬぐえないまま、教会でダンス練習に励むことが多くなった。
私は教会に来た直後~聖歌隊で活動をしたい、と思っていたことは前に述べたとおりだが、洗礼を受けてからというもの、牧師先生にも聖歌隊で活動したい旨を告げたところ了承されたため、キャンプ終了後から聖歌隊練習にも参加するようになった。
聖歌隊として賛美したのが早かったのか、ダンスチームとして賛美したのが早かったのか、今となってはよくわからないがこれだけはわかる。それは教会のHPの動画紹介の所で洗礼後の映像で、私が映っているのは聖歌隊で映っているもので9月上旬だった。
だからその時にはダンスチーム or 聖歌隊ではなく、ダンスチーム and 聖歌隊と二足の草鞋を履いて活動をするようになった。
ただし、洗礼準備クラスの時ほど過酷なものではなく、ダンスチームも聖歌隊も平日の日中は大学や職場で過ごす方ばかりだったので、練習は平日(ダンスチーム・当時は水曜日だったかな)、土曜日(聖歌隊)夕方~夜だったので、そんなに支障を来すことはなかった。
留学生との交流
私の教会は海外の留学生が多かった。従って多文化交流の場としての教会の利用もあった。日本の教会として日本文化を体験してもらうということで、風船釣りとか提灯(教会の手作りではあるものの)とか、女性は浴衣体験とか屋台飯とかもあった。そういう経験ができる場として海外の方も来やすいイベント事が好きな牧師先生だったので、その後も(そのたびごとに触れていくが)イベントを企画され私は驚かされることになる。
祈祷院での御業
洗礼を受けてわずかの間に、ダンスチームと聖歌隊の二足の草鞋を履く生活をしていたので、毎週の礼拝(1日中教会に詰めていた)以外にも教会に行く生活が始まり良い信仰生活を送っていた。そんなある礼拝で、牧師先生は近くにある祈祷院を見つけてきた、と話された。
上の祈祷院である。石岡市にある祈祷院だった。私が行っている教会とは全く異なる、建築自体も綺麗で荘厳なそんな場所だった。
そこでリトリートというものを初めて経験した。牧師先生の説教をすごく受けるそんな会、しかも1泊2日という短期間だったが、非常に大きな恵みを頂いた。
ちょうどその当時、私は「神の小屋」を読んでいた。キャンプ中の少女の誘拐という少し恐い題材の話ではあったが、その中に出てくる幻のような光景がこの祈祷院での祈りの中に起こったと言っても言い過ぎではない。
心の要塞を崩す祈りをしていた夜のこと、自分の内面の悔い改めをその場で行っていた私は、急にそのまぶたの内側にスクリーンが出たような光景が見えた。そしてそのスクリーンの脇には講壇のようなものがあり、そこに見たことがない方(人なのか何なのかわからないが)が存在し、急にスクリーンを動かし始めたのである。その時に映った光景には自分が記憶から消し去っていた多種多様なシチュエーションでの「いじめ」や「度が過ぎるしつけ」が出てきたのである。
正直そのことに触れずに生きてきたことは確かであったが、同時に思い出したくないものであった。義務教育9年間の内7年間のいじめの記憶は呼び戻すとなかなか消えない、というか消えてくれそうにないテーマではあった。そしてしつけもどちらかといえば両親よりも手厳しいしつけをする伯母がおり、家に来られた時には萎縮してストレスが溜まったのは確かである。
そういう像をスライドショー形式で見せられて私は「主の御名で赦します」と告白していった。するとどうだろうか、自分は気がつくと涙を流していた。この光景は今でも鮮明に覚えているので、それくらい実体性のあるものだったのかな、と思っている。今冷静にこの光景を見ると、そのいじめやしつけにあった時も主は見ていて、悲しい思いをしていたんだよ、共感していたんだよと告げられているようなものだと捉えることができる。
'天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 'エフェソの信徒への手紙 1:4 新共同訳
全ての御業が起こった後、私はこれを分かち合いたいと思ったが、周囲の友人はみな個人の世界に入り、就寝してしまっていたので、分かち合いはできないかなと思っていた。しかし、この時にこそ牧師先生の出番だと思い、牧師先生に連絡を入れ、分かち合いをすることにした。そこで上のような出来事が起こったことを告げると、十分御業が起こったと言われたので、翌朝皆の前で発表することになった。これは、その後その週の礼拝日にも同様に「証」として発表することになった。教会の信仰の先輩方も、洗礼を受けてから2,3か月での御業の出現に驚きを隠せないようだった。
御業が起こってから
もちろんその1回の出来事により、私は神様というものをより身近に感じられるようになった。そして、どんな時も感謝するようになっていっている自分を見るようになった。
そして、信仰生活の中でやることが多く忙しいというイメージから、少しずつ楽しいという感覚に変わってきたのもこの頃である。
そして次回は2017年の動きに入っていこうと思う。これは少し私の中で大きな動きがあった年であるので、なかなか大変だろうと思うが書いていこうと思っている。
今後も読みたい方はフォローやスキをお願いします。
聖句共有もしていくかもしれないので、次の聖句共有までは先週と今週の聖句共有マガジンで復習してください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?