巨人の肩の上に立った店長さん

 「巨人の肩の上に立つ」
 Google Scholarを開くと出てくる表現で、巨人というのは先人たちやその偉業のことを言うらしい。つまり、誰かが功績をあげたらそれは自分一人で成し遂げたのではなく、これまで先人たちが作り上げた偉業や常識の上に成り立ったのである、という意味だそうだ。巨人の肩の上に立つという表現にすることで、本人がちっぽけなものですよ、と謙遜しているようにも感じられる。お上品ではないか。かのりんごが落ちたで有名なアイザック・ニュートンの言葉と伝えられている(諸説あり)。
 この表現が心にとまったのは、ある美容師さんとのやりとりを思い出したからだった。以前お世話になっていたある美容師さん。彼は店長さんという立場だが、たぶん当時は30代前半くらいで誰が見てもイケメン。沢山お話をしてくれたのだが、一言で言えば話が合う方で、美容室に行くのは楽しみだった。
 ある時、店長さんが訊ねてきたことがあった。目標にするひと、こうなりたいと思うひとはいるか。私は答えた。このひとになりたい、と思う意味での目標はいません。複数の上司と仕事をして、このひとのここが良い、あのひとはそこ、そのひとはどこ、という風にそれぞれの良さや強みがある。その良いとこ取りをして、それを元に考えて、まとめて、自分の方針としてこうしたい、と打ち出していきたい、と言うような返事をした。指示語が過ぎるが、店長さんは同意してくれた。
 なぜかって、私たちは誰かみたいになりたいという目標は、上限を設定してしまっているということを知っていたからだ。それよりも上を目指さないといけない、目指すべきはもっと先で上。職種が違っても、既存の概念を超えてより良い方法やら考えやらをいつまでも探求して行く必要があるのだ。
 これが、「巨人の肩の上に立つ」という意味だろう。先人たちの教えを尊重した上でさらに研鑽を重ねなくてはならないのだ。そして、いつか我々が重ねた努力が巨人の肩となるのだろう。というよりも、なって欲しいと願うのだ。今の時点で未来は分からないから。先人に対する尊敬を忘れない謙虚さを抱いていられる人間でいられるようにも努力しなくてはならないだろう。
 それにしても、巨人の肩の上に立つということは容易ではないはずだ。小人が巨人の肩に上るのだから、はしごという道具や、押し上げてくれる助っ人や、登り方を教えてくれる先生だって必要だろう。猫型ロボットまではいかないまでも、画期的で一見奇抜なアイディアだって時には必要かもしれない。これが教育であり、優れた指導者と出会えるか否かが分岐点だ。出会いということはつまり、運や情報量によって運命が左右される。努力だけではどうにもならないという、致し方ない理不尽が目の前に立ちはだかっているのが現実だ。
 時を戻そう。店長さんのように「話が合う」味方に出会えたことはとても貴重な財産である。イケメンだから良いという問題でもないし、過去の過ぎた思い出というだけではない、これからも大切にとっておきたい大切な財産なのだ。うれしいではないか。うれしいから自慢してやった。

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