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神々の深き欲望 1968年日活

神々の深き欲望

さて、気がつけば、本年度最後の映画鑑賞となりました。
野菜作りも一応「仕事納め」をして来たので、久しぶりに、長編大作でも見てみようかと思い、Amazon プライムを検索。
便利なもので、前回見た「アナタハン」を視聴した人に対して、「おすすめ」の作品をズラリ並べてくれているんですね。
天邪鬼な映画ファンとしては、IT機能ごときが弾き出した結果に準じるのには変な抵抗があって、これは大抵は無視してきたのですが、今回だけは素直に従わせていただくことにしました。
見たいと思いながら、今までなかなか見るチャンスがなかった一本を発見したからです。
今村昌平監督の1968年作品「神々の深き欲望」です。
なかなか見応えのある175分でした。(途中休憩あり)
「アナタハン」とは、絶海の孤島つながりということでしょう。
本作の舞台は、沖縄にある架空の島「クラゲ島」。
高度成長真っ只中の時代にあって、文明からは孤立し、原始的な農耕と土俗信仰に生きている南海の島です。
「構想6年、撮影2年」と言いますから、今村監督としては、それまでの自分のキャリアの集大成にする意気込みで取り組んだ入魂の大作といえましょう。
それなりに名のある監督が、気合を入れすぎると、製作費は高騰するものです。
黒澤明監督の「七人の侍」、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」よろしく、本作もその例に漏れず、製作費はうなぎ登り。(今村監督には「うなぎ」という作品もありました)
この長尺では、一日の上映回数も限られてしまい、作品の高評価とは裏腹に、興行収入は思うように上がらなかったようです。
日活から独立して作った今村プロダクションは、この映画により、破産寸前にまで追い込まれることになります。

今村作品で、最初にシビれたのは「復讐するは我にあり」でした。
なんと言っても、三國連太郎が、倍賞美津子の巨大なバストを後ろから鷲掴みにする画像が、映画雑誌に載っていたので、映画館に飛んで行った記憶です。
「赤い殺意」では春川ますみが強盗に犯され、「楢山節考」では、あき竹城が緒形拳と濃厚な濡れ場。
この監督の嗜好が、かなり肉感的なセックス・アピールのある女優に向いていたようなので、この辺りがこちらのスケベ心のツボを大いにくすぐってくれていました。
出世作「にあんちゃん」で、心ならずも文部大臣賞をもらってしまった今村監督は、これを「自分らしくない」と大いに反省し、それ以降は、彼自身が言うところの「重喜劇」路線を邁進し、その時代ギリギリの性表現に挑んでくれる作風で、僕のようなスケベファンを大いに喜ばせてくれるので、目が離せない監督となっていました。
本作では、知的障害を持つ島の娘を演じた沖山秀子に注目が集まりましたが、個人的な好みとしては、島のノロ(巫女)を演じた松井康子。
後にピンク映画の女王と呼ばれた、「愛のコリーダ」(もちろん修正版)でも、見かけた女優です。
その頃はかなり太り気味の印象が強かったのですが、この頃の彼女は、まだしまっていて、ちょっと山本富士子を彷彿とさせるような日本的な顔立ちの美人。
今村監督が、熱望したキャスティングだったそうですから、やはり彼の好みだったのでしょう。
もっとも、本作に出演した嵐寛寿郎の証言では、ロケ中、今村監督は、彼女ではなく、デビューしたての沖山秀子の方と、なにかとよろしくやっていたそうです。

さて、古い因襲が支配する、文明から隔絶されたこの南海の孤島の村落社会には、近親相姦が幅を利かせています。
三國連太郎演じる根吉は、嵐寛寿郎演じる祖父が実の娘との間に生ませた息子。
その根吉と、松井康子演じるウマも、兄妹でありながら関係を持ち、根吉の息子である亀太郎(河原崎長十郎)も、妹トリ(沖山秀子)と何やら怪しげな関係。
近親相姦は、古来から、一般社会では忌み嫌われて来た傾向もありましたが、なぜか神々や王侯一族の間では、暗黙に了解されてきたようなところもあります。
本作でも、根吉の家族は、島の中でも代々神事を司ってきた家系で、島民からも一目置かれているという設定でした。
周知の通り、神が最初に作った人類であるアダムとイブも、近親相姦で、息子であるカインやアベルを設けています。
しかし、近親相姦に対する扱いは、世界中のいろいろな文化の中では、捉え方も微妙に違っています。
穢れた不浄の関係だと忌み嫌われる社会もあれば、比較的おおらかな社会もあります。
現代的な感覚で言えば、やはり科学が進歩した社会では、近親相姦はタブー視され、比較的文明の発達していない地域では、うるさく言わないというイメージはあります。
日本では、古くから伝わる犯罪の類型である「八虐」の中に、国家や家族に対する暴力は「不義」「不道」として挙げられていますが、その中に近親相姦は含まれていません。
現行法律上でも、被保護者による実子への姦淫は、性的虐待として刑罰の対象になりますが、一方で、暴力や脅迫を伴わず、成人同士の合意がある場合なら、その限りではないということになっており、いとこ同士の婚姻例は、僕たちの一つ上の世代では、普通にありましたし、そういう設定の映画やドラマも多くありましたね。
よく言われるのは、近親婚をすると、奇形児や障害児の生まれる確率が高くなるという説です。
気になって調べてみましたが、確かにそういう調査結果は報告されているのだそうですが、まだ遺伝子学上の科学的説明まではされていないようです。
ただ、ギリシャ時代に、すでにソクラテスは、近親相姦を戒める説法をしていたようですし、ギリシャ神話に登場するオイディプスは、父親を殺し、知らず知らず実の母親と親子婚をしてしまう悲劇を描いていたりしますので、科学的根拠はないにせよ、人間の潜在意識の深いところでは、本能的に、近親相姦に対するタブー意識は、遺伝レベルで埋め込まれているような気はします。
僕は男兄弟で、姉も妹もいないので、なかなか想像はできませんが、美人を姉妹に持った兄や弟たちが一緒に暮らしていて、異性としてムラムラすることはないものかと不思議に思ったりもしたものです。
しかし、危ない話は、エッチ系の映画の題材としてチラホラ散見するくらいで、自分の友人たちに聞いてみても、そんな話を聞けたことはありませんでした。
ただ一つ。
これは何かの本で、昔読んだ記憶なのですが、40代以上になると、突然男性たちに発生するあの加齢臭。
これは自分ではなかなか気がつかないので、なかなか厄介なのですが、これが発生する理由が妙に腑に落ちたんですね。
つまり、加齢臭は、家庭内近親相姦を防ぐために体内に仕掛けられたメカニズムだというのがその記述の論旨。
40代といえば、普通に結婚していれば、ちょうど娘たちが妙齢になってくる年代です。
ちょうどこのタイミングで発生する加齢臭により、娘たちに「パパ臭い」という嫌悪感を持たせることで、親子間の距離を遠ざける役目を担うのが加齢臭の正体だというわけです。
この記憶を確認したくて、ちょっとWiki してみましたが、残念ながら、それを裏付ける書き込みは見つかりませんでした。
加齢臭に関してどなたか、クリアに説明できる方がいたら、ご教示下さいませ。
とは言っても、本作の三国連太郎も、嵐寛寿郎も、どちらもかなり体臭はきつそうなイメージではありますが、残念ながらクラゲ島では通用しなかったようです。

それからもう一つ、島の風習として、本作で描かれていたのは「夜這い」ですね。
これも、ビンク系の映画では度々取り上げられる素材でしたが、こちらは、どんな田舎に行っても、さすがに、現在までその習慣が残っている地方はなさそうです。
富国強兵政策を推し進めていた明治政府が、国民道徳向上の観点から法律的に禁止を始めてから、その慣習は都市部を中心に次第になくなっていきましたが、山深い農村部落社会では、戦前当たりまでは根強く残っていたようです。
Wiki によれば、夜這いとは、「夜中に、性行為を目的に、他人の寝所に訪れること」
とにかく、この風習は、江戸時代までは、各地方で当たり前に行われていて、数々の和歌にも詠まれていました。
娯楽の少なかった時代では、田舎の共同体においては、周知のエンターテイメントとして存在していて、ちょっと恐ろしいような言い方ですが「娘と後家は、村の若衆のもの」というような共通認識があったそうですから、器量が良く狙われやすい年頃の娘たちは、たまったものではなかったでしょう。
しかし、基本的には強姦ではなく、合意の上で行われる行為だったようですから、言ってしまえば、自由恋愛の少々アナーキーな形態と言えないこともないわけです。
現代ならまだしも、当時こんなことをされて、裁判所に訴えたという女性の話はとんと聞こえてきませんので、農村社会の中では、ある程度は許容され、定着していた習慣と言えるでしょう。
良い悪いは別にして、こういう社会の方が、案外性犯罪の数は少なかったかもしれません。
都市部では、地方から集まる若者のセックス欲求を処理するために、昭和33年の売春禁止法施工までは、遊郭、売春街は、国も認める産業として運営されていたわけですが、それが出来ない地方の山村では、無償で、しかも施設も持たずに維持できる性処理風俗として、この習慣を無視できなかったということかもしれません。

本作には、今村演出として、数多くの島に生息する生物たちのカットが、挿入されます。
原始の社会では、人間たちも、実はこの生物たちと変わらないところから出発しているという監督のメッセージだと読めます。
今村監督は、映画を製作するにあたっては、徹底的にその背景を調査することで有名です。
本作を製作するにあたっては、柳田國男の民俗学の本を、読み漁って脚本を執筆したそうです。
これをベースにして、クラゲ島ワールドは展開されていくわけですが、その中でも、とりわけ人間の根源にある性衝動は、彼にとっては、大きなテーマの一つ。
そして、それは、本作に限らず、他の今村諸作品においても、概ね底通しているものです。
大きな脳ミソを持つことによって、地球上に生息する生物の中では、他の追随を許さないほどに進化してきたホモサピエンスは、この先、さらに進化して我が道をゆくべきなのか、それとも、そろそろスローダウンをして、自然と共存し、原始社会を見直すべきなのか。
そんなことを考えても、到底この頭では結論は出せやしませんが、自給自足を目指している、助平な百姓としては、ITによる高度管理社会よりも、自然回帰路線の方に、自分の幸せは見出せそうです。

「神々の深き欲望」とは言っても、それは深くもなんでもなく、いたってシンプルで、我々の遺伝子にも当たり前に組み込まれている本能的なものかもしれません。


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