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エイリアン:コヴェナント 2017年アメリカ

エイリアン:コヴェナント

エイリアン・シリーズの一番新しい作品を見ました。
2017年の作品です。
監督は、一作目と、前作「プロメテウス」を監督した、リドリー・スコット。
一作目は、1979年の作品ですから、すぐに年齢が気になってしまうのですが、この作品公開時のスコットスカトクの年齢は、79歳。
このお歳で、全然枯れていないのはさすが。そして、これだけエネルギッシュな作品を撮れるのは、まず凄いことだと感心いたします。
エイリアン・シリーズは、本作以外では、第三作目までお付き合いしています。
映画がヒットすれば、すぐに二匹目のドジョウを狙うのが、定石の映画界にあって、続編が一作目の面白さを超えた唯一の例外が「ゴッドファザーPart2」でしたが、このシリーズの二作目を監督したジェームズ・キャメロンが頑張って、その二つ目の例外を作ったの「エイリアン2」でした。
これで期待が膨らんでしまって、「エイリアン3」も見ましたが、ここで明らかにトーンダウン。
このシリーズで、一躍ドル箱女優に躍り出たシガニー・ウィーバーは、「エイリアン4」まで、頑張ってくれましたが、興行成績はジリ貧。
苦し紛れに、プレデターとモンスター共演するまでになると、シリーズは、完全にB級映画に転落。
但し、このシリーズのヒットのおかげで、元々は単に異国人という意味だった「エイリアン」という言葉は、完全に攻撃的地球外生命体の代名詞のようになってしまい、ゲームやキャラクター・グッズとして、様々なメディアを横断して、一人歩きし出したのは、ご存じの通りです。
このヒット・シリーズを再び復活させようとして、20世紀フォックスが声をかけたのが、二作目を監督したジェームズ・キャメロン。
しかし、押しも押されぬヒット・メーカーになっていた彼は、そんなB級作品に落ちぶれたシリーズにはもはやなんの興味もなく、軽くこの話を蹴ってしまいます。
しかし、そこで手を挙げたのが、本シリーズの本家本元のリドリー・スコット監督というわけです。
そこで、作られたのが前作の「プロメテウス」でしたが、これは原題に「ALIAN」という文字が入りません。
ただ単に「プロメテウス」です。
おそらくは、B級作品に転落したシリーズのイメージを引きずるのを、リドリー・スコット監督が、潔しとしなかったのでしょう。
最近では、「バットマン」シリーズなのに、「バットマン」がタイトルに入らない「ダークナイト」があったり、「スーパーマン」シリーズなのに、それがタイトルにつかない「マン・オブ・スティール」がありますが、これみんな同じ理由でしょうね。
年齢はいっているとはいえ、「映像派」として、こちらも依然大監督の地位は保持しているのがリドリー・スコット監督です。
今回の原題に「エイリアン」の名前は再び復活していますが、作品としては、完全に前作の続編。
シナリオ自体も、観客は前作を見ているとの仮定で作られていましたので、本作よりも先に鑑賞しておけばよかったかなとも思いましたが、ストーリーの飛んだ部分は、本作鑑賞後、Wiki で確認いたしました。
ざっくり言えば、前作と本作は、「エイリアン」一作目の前日譚ということになります。
シリーズは、作品を重ねるごとに、映画としてはつまらなくなっていきましたので(続編は除く)、その流れは引きずらずに、ならば話を前に戻して、面白くしようとしたのでしょう。
こういう大監督が、シリーズのテコ入れをしようということになると、どうしても話のスケールは大きくなりがちです。
思い起こせば、シリーズの一作目は、宇宙空間を舞台にした完全なる「ホラー映画」でした。
なんと言っても、キャッチ・コピーは、「宇宙では、あなたの悲鳴は聞こえない」でしたから。
そして、キャメロン監督の二作目では、宇宙を舞台にした手に汗握る「アクション・アドベンチャー映画」として楽しめました。
リドリー・スコット監督が、目指したのはこの二作越えだったと思いますが、ヨーロッパやアメリカの監督が、スケールをでかくし、映画を奥深いものにしようとする時に、よく盛り込んでくるのが哲学やアカデミズム、そしてキリスト教的背景の教義です。
娯楽映画にこれらの要素が加わってくると、確かに作品には厚みが出てきます。
しかし、学術的知見ならまだしも、キリスト教的文化背景となると、我々日本人には、なかなか肌感覚では理解できないもの。
ワーグナーがどうだとか、誰それの詩がどうだとか、はっきりとシナリオとして触れられてはいないのですが、キリスト教リテラシーがあれば理解できるものが、どうやら映画の背後には潜んでいそうです。
あの「エクソシスト」で全米が震えあがったのも、明らかにその背後には、日本人には、肌感覚として理解できないキリスト教文化の影響がありました。
ロードショーであの映画を見に行った時、隣に座っていた外人のオバサンが、リーガンが十字架を股間に向かって突き刺そうとした時、悲鳴を上げていたのを思い出します。
「コヴェナント」は、映画の中では宇宙船の名前ですが、その意味は「契約」。
つまり、「旧約聖書」「新約聖書」の「約」の意味ですから、本作がホラー映画から、宗教チックに膨らんでいることは、タイトルからも推して知るべし。
なにやら、この二作で、「エイリアン・シリーズ」は、リドリー・スコット監督にとっては、ライフワークのようになってきていますから、単なるホラー映画にはしたくなかったのでしょう。いやでも気合は入ろうというもの。
もちろん、映画はヒットしたわけですから、それはそれでよし。
但し、その映像のスケールの大きさ、エイリアンのリアルさと、おどろおどろしさは、映像派リドリー・スコット監督の面目躍如なのですが、ホラー映画ファンとしては、「怖い」ものよりもなんだか「凄い」物を見せられたというような印象で、シンプルに映画の面白さとして、一作目を超えたかといえば、それはやや微妙なところ。
もちろん製作費は大幅に超えたでしょうが。
例えば、サスペンスの巨匠ヒッチコックは、自作品のリメイクはしましたが、続編は一切作りませんでした。
彼が追求したのは、如何にして、観客をハラハラドキドキさせるか、ただその一点のみで、そのために必要なのは、映画に下手な先入観を持たせないこと。
それゆえに、どんなヒット作を作ろうと、安易にその続編を作ることはせず、次回作には、すべての設定をリセットして挑んだわけです。
エイリアン・シリーズの、シリーズを通しての唯ひとつのお約束は、危険で獰猛な地球外生命体が、人間を襲い捕食し、増殖しようとすること。
これを徹底的にシンプルに描いて、ホラー映画として大ヒットしたのが一作目でしたが、本作には、それ以外のいろいろな要素が盛りだくさん。
人類誕生の秘密に、映画的に迫ろうというところまで、シナリオには書き込まれているわけですから、映像派監督としてはやはり気合は入るでしょう。
彼としては、キャリアの集大成みたいな意気込みで本作を作っていそうですから、スケールは膨らんでしまってもやむなしというところかもしれません。
しかも、この終わり方では、絶対にこの続きがあるのは確実。
80歳を超えても、まだこの続きを自分でやる気なのだとしたら、この人のパワーは、老いたりといえども「エイリアン」なみといえるでしょう。
とにかくこの監督の真骨頂は、不気味でダークな世界を、アートなエンターテイメントにしてしまう映像感覚です。
これは、今回の作品でも十分に堪能できましたので、まずは御礼まで。

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