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死の接吻 1947年アメリカ

死の接吻

本作も、今まで見たいと思っていて見れないでいた一本です。
1947年制作のフィルム・ノワール。
Amazon プライムで見つけました。
この時代の未見映画の豆情報は、昔々読んだ和田誠氏の「お楽しみはこれからだ」シリーズから得ていたことが多く、当時はその情報をもとに、テレビの映画劇場や、名画座巡りの参考にしていました。
本作を語る上で外せないのが、これが映画デビューとなる、リチャード・ウィドマークの怪演。
主演のビクター・マチュアを食ってあまりあるその存在感は、これがスクリーン・デビューとは思えないほど堂々としていました。
彼が演じたのは、残酷非道な殺し屋トミー・ユードー。
まだこの頃には、サイコパスという言葉は一般的ではありませんでしたが、彼こそまさにドンピシャリそのイメージです。
とにかく、その笑い方がエグい。
口角を思い切り上げて、ケタケタと爬虫類のように笑うのですが、絶対に目だけは笑っていないわけです。
「シャイニング」のジャック・ニコルソンの恐怖の笑顔も強烈でしたが、ホラー映画ではない分こちらの笑い顔の方が恐ろしいかも。
そして、本作で最も有名なシーンは、映画の中盤に登場します。
ユードーが、密告者を追って、男のアパートにやってくると、車椅子に乗った母親が一人。
男が高跳びしたことを隠そうとする母親を、ユードーは、逃げた男への見せしめとして、車椅子に縛り付けたまま、ケタケタと笑いながら、2階の階段の上から階下へ突き落としてしまいます。
このシーンは、かなり当時の観客の度肝を抜いたようで、リチャード・ウィドマークの名は、この演技一発で、ヒール役の代表的アクターとして、一気に知れ渡ることになります。
彼につけられたニックネームが「ハイエナ」でしたから、本人も痛し痒しでしょう。
監督は、ヘンリー・ハサウェイ。
マリリン・モンローの出世作「ナイアガラ」なども撮った監督で、フィルム・ノワールや、西部劇、冒険活劇を得意とした人です。
ちょうど、イタリアのネオリアリズモ作品が映画界では評判になっていた時期で、本作も冒頭では、全編現場ロケであることを強調し、ドキュメンタリー映画のように画面作りに腐心しています。
この監督は、かなりパワハラ色の強い人だったらしく、俳優たちには相当強権的だったようです。
極め付けはこの階段のシーン。
突き落とされる母親を演じた俳優ミルドレッド・ダンノックには、なんと車椅子と一緒に落ちてくれなどと注文したとのこと。
しかも、彼女が必死の思いで演じたそのシーンが、撮影ミスでNGとなると、再度落ちてくれと頼んだというから呆れます。
今のハリウッドなら、絶対にあり得ない話ではあります。

原作のエリアザー・リプスキーは、1942~46年のあいだ、実際にニューヨーク郡の副検事をつとめていたとのこと。
従って、この作品で、ビクター・マチュア演じる主人公ビアンコに司法取引を迫る副検事ディアンジェロは、当然リプスキー自身がモデルなのでしょう。

タイトルの「死の接吻」というのは、マフィアのボスや幹部が、組織の構成員に対して出す粛清を示すサインであり、通常は何らかの裏切りに対する懲罰として行われる合図のようなイメージですね。
警察からの司法取引の応じて、殺し屋トミー・ユードーの有罪を立件するための証言をするビアンコは、いわば裏切り者。
「裏切り者」が、その身内も含めて、このユードーの手にかかれば、どういう目に遭うのかを「階段のシーン」で強烈に見せられている観客は、そのユードーが、証拠不十分で釈放され、しかも警察の尾行からも逃れたと知り、思わず手に汗を握ります。
逃走後のユードーは、なかなか姿を現しません。
当然、この後に展開されるのは、サイコパスな殺し屋による報復です。
ユードーの影に怯えるビアンコは、家族を安全な場所に逃します。
そして、覚悟を決め、ユードーの居所を突き止めると。我が身を呈して、ユードーに再犯の拳銃を握らせようとします。
レストランの黒いカーテンの細い隙間から、ビアンコを睨むユードーの爬虫類のような目つきが印象的でした。

ちょっと脱線しますが、新約聖書に、「ユダの接吻」という場面があります。
「最後の晩餐」の翌日、ユダヤ祭司長の兵士団が、キリストを捕らえに現れます。
密通者で裏切り者のユダは、兵士団にキリストが誰かを知らせるための合図として、キリストに抱きついて、キスをすると知らせていました。
その場面の宗教画は、ネット上でも何種類か確認できますが、どの絵画を見ても、キリストは達観していて、あえて、ユダの接吻を受け入れているようにも見えます。
本作の主人公は、密告者ですから、キリストではなく、むしろユダの方の立場なのですが、最後の晩餐(
ユードーに用意されたレストランの食事)の後、丸腰となって、ユードーが銃口を向ける車の前に、無抵抗で歩み寄る展開は、受難をあえてその身で引き受けようとするイエス・キリストの姿と重なります。
演じたビクター・マチュアは、本作の後、「サムソンとデリラ」や「聖衣」といったキリスト教スペクタクル映画の「顔」になっていくのもまた興味深いところ。
だとすれば、立場は違えど、接吻の代わりに、ケタケタと笑いながら、ビアンコを粛清しようとするこの残忍な殺し屋に、映画制作側が、ユダのイメージを重ね合わせていたのではないかと、聞いてみたくなります。
そう考えると、このユードーという名前も、実はユダの・・・

おっと、これはちと妄想しすぎでした。
こういうのを、ユードー尋問と言います。失礼。

そういえば、個人的にとても印象に残ったシーンがありました。
ビアンコが仮釈放され、妻のアパートに会いに行くシーン。
再会のキッスを交わしているところに、階下から呼ぶ声。
下りて行こうとするビアンコを引き留め、妻はそっと彼の唇に残った口紅を拭き取ります。
なんでもないシーンでしたが、キスシーンよりも、こちらの方にちょっとドッキリしました。
今まで、数えきれないほどの情熱的なキスシーンは見てきましたが、大抵の場合、スクリーン上でのキスはやりっぱなしで、その後のこんな些細なリアルが描かれた映画は、少なくともハリウッド映画では皆無でした。
僕の記憶にある限り、昭和30年代の日本映画「波の塔」で、有馬稲子が不倫相手の津川雅彦の唇をハンカチでそっと拭いたシーンを覚えているくらい。
妻を演じていたのは、コリーン・グレイという人で、本作一本で今回きちんと頭にはインプットされました。

どちら様も、接吻は行為の後にこそ気を配られたし。

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