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日本のいちばん長い日 2015年松竹


終戦記念日の8月15日。

この日は、私事ながら、母の命日でもあるので、やはりどうしても、普通にはやり過ごせない思いがあります。
昭和20年のこの日正午に、昭和天皇による玉音放送がラジオから流れたのは、日本国民なら誰もが知るところ。
これ故、この日が我が国では、終戦記念日ということになっているわけですが、アメリカでは一般的に「終戦」の日は、戦艦ミズーリ号甲板上で、日本の重光外相が、降伏文書に調印した9月2日ということになります。
この日は、アメリカ式に言えば、「対日戦勝記念日」”Victory over Japan day”
戦争に勝ったアメリカにしてみれば、当然そういうことになるでしょう。
これは致し方ない。
ということであれば、この日は日本にとっては、紛れもなく敗戦記念日。
少々自虐的にはなりますが、個人的には、この日は、終戦記念日などというオブラードに包んだ言い方をしないで、いっそ潔よく「敗戦記念日」としておいた方が、日本人のためにはいいのではないかと思っています。

本作は、まさに戦後日本のターニング・ポイントになったこの終戦の日(正確には、前日からの)を、ドキュメンタリー・タッチで追った2015年製作の原田眞人監督作品。
原作は、今年になって亡くなった半藤一利。
1965年に発表された小説(当初の名義はなんと大宅壮一)でしたが、この2年後には、すでに東宝の35周年記念作品としてオールスター・キャストの豪華な顔ぶれで映画化されています。監督は、「肉弾」の岡本喜八。
この旧作の方は、学生時代に、どこかの名画座で見ています。
こちらはモノクロで撮られていましたが、戦争当時の映像も上手に取り入れられていて、なかなか迫力のある作品でした。
今回は、そこから数えて48年ぶりの再映画化ということになります。

どちらの映画化の方が良かったというとヤボになってしまいますが、やはり色々と比べてはしまいます。
決定的に違うのは、旧作がある意味では歴史群像劇であったのに対し、今回は明確に特定の登場人物にスポットが当てて脚本が練られていたことですね。(脚本は原田監督自身)

まずは、終戦のこの日に切腹して自害するを阿南惟幾陸相。
旧作で演じたのは、世界の三船敏郎でしたが、本作では役所広司。
終始眉間に皺を寄せた三船の「剛」の演技に対し、断固本土決戦を主張する陸軍士官兵たちと、終戦に舵を切る政府の間で苦悩する阿南の相剋と内面の苦悩を、役所広司の演技はより深く掘り下げていました。

そして、終戦内閣となった鈴木貫太郎総理大臣。
旧作では、笠智衆が演じましたが、本作でこの人を演じたたのは山崎努。
鈴木貫太郎は、終戦当時77歳の老齢でしたが、演じた山崎努は撮映当時79歳で、ほぼ実年齢が一緒。
ちなみに、笠智衆の方は、旧作撮映当時まだ63歳でしたが、ちゃんと77歳に見えていたのはさすがでした。
この役も、本作では家族との交流まで描かれていて、旧作よりも、深掘りされています。

そして、本作で松坂桃李が演じたのが、玉音放送を阻止しようと画策する青年士官たちの一人畑中少佐。
彼が、事実上、歴史に刻まれている「宮城事件」をリードします。
旧作でこの役を演じた黒沢年男も、迫力ある演技で彼の「狂気」を表現していましたが、この役に関しては、坊主頭っぷりの潔さで、松坂に軍配をあげておきます。
ちなみに、この青年士官たちの坊主頭には、原田監督はかなり拘っていた節があって、役所広司も含め、どの俳優も見事にクリクリ頭でした。
旧作は、この点はオールスター映画というのが仇になって、あまり徹底出来ていなかったような印象です。

さて、旧作に比べて、確実にスポットが当てられた登場人物がもう一人います。
それは、昭和天皇。
旧作では、まだ昭和天皇がご存命中ということもあって、セリフにも、撮影にも最大限の配慮がされていました。
演じてたいたのは、八代目松本幸四郎でしたが、カットもアングルも、顔は最小限しか写らないように考慮されており、クレジットにも配慮がありました。
しかし、本作では、本木雅弘が、日本映画史上では初めて、しっかりと役者として、正面から昭和天皇を演じています。
「太陽」という映画で、イッセー尾形が主役で天皇陛下を演じていますが、これは日本映画ではなくロシア映画でした。
本木雅弘は、この大役のオファーに最初は躊躇したそうですが、背中を押したのは、義母の樹木希林だったのこと。
彼は、記録として残る昭和天皇の映像から学習し、しっかりと役作りに落とし込んで、この役に挑んだことは推測できます。
彼なりに、昭和天皇の内面を、「ご拝察」したのでしょう。

岡本監督の、ナレーションやテロップを多用したテンポのある演出で緊迫感を盛り上げていく、ドキュメンタリー・タッチと対比するように、原田監督版は、人間ドラマをより深く描いていくことで、映画に厚みを持たせた演出と言えます。
どちらがいいとかいうモノでもありませんが、楽しみ方はそれぞれということでしょう。

どうして、日本は、負けると分かっている戦争をやめられなかったのか。

一度ことが動き出してしまうと、もうそれにブレーキをかけることはできなくなるという、日本という国家のDNAに深く刻まれたマイナス要因は、今尚その深刻度を増しつつあります。

まず原発問題がそうでしょう。

原発がどれだけ危険で、どれだけコストがかかるというエビデンスは、世界を見ればとっくに出揃っているのに、我が国の政府は、それには目を瞑って、いまだにセコセコと、原発をなんとか再稼働させようと躍起になっています。

今回のオリンピック問題も然り。

国民の8割が反対しているにもかかわらず、科学的根拠を何も示さないまま、精神論と自分の権力の維持と、ステイクホルダー達への便宜のためだけに、感染拡大など百も承知で強行開催してしまいました。
この大会中に起こっていたことは、今後どんどん明らかになっていくでしょうが、「都合の悪い真実」を、おそらく彼らはとことん隠蔽します。

そして、その新型コロナの問題。

日本の対策は、世界の標準と比べて、明らかにトンチンカンです。
これも、全ては最初のボタンの掛け違いが原因なのは明らか。
その間違いをいまだに修正できていないからです。
昨年のウィルス・パンデミック初期段階で、自分たちの天下り先を確保するために、厚労省の医系技官達が、PCR検査とそのデータを全て、全国の保健所に抱え込んでしまったのが、全ての間違いの始まり。
しかし、巷に感染者数が溢れ出すと、パンクしそうになる保健所を守るため、彼らは「PCR検査を増やして、陽性者数が増大すると医療崩壊が起きる」などという、専門家としておよさあり得ない屁理屈をこじつけて、今度は保健所をオーバーワークから守り始めます。
ワクチン開発においても、検査技術においても、ゲノム解析技術においても、日本には、世界水準から見ても引けを取らないトップクラスの民間スキルがあるにもかかわらず、保健所を統括する厚労省の感染症ムラが、自分たちの保身のために、この収集された検査データを抱えたまま離そうとしません。
ワクチン接種と並んで、「検査と隔離の徹底」こそ、新型コロナ対策の肝であることは、すでに世界中が承知していることなのに、これに未だ頑なに背中を向けている国は、今や世界中で日本だけです。

どの問題も、「間違い」には気が付いているにもかかわらず、それでも「一度足を止めて仕切り直す」という、当たり前の解決策が実行できないでいるものばかり。

これがもし、原発問題でもなく、オリンピック問題でもなく、Covid-19でもなく、戦争だったら・・・

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