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オデッサ・ファイル 1974年イギリス/西ドイツ

オデッサ・ファイル
さて今回は、Amazon Primeではなく、自分のDVD在庫の中からセレクトした一本です。
本作は、1974年の作品。
この頃の僕はまだ中学生で、なけなしのお小遣いをはたきながら、人生で一番映画館に通っていた頃です。
インターネットも、レンタルDVDもなかった頃ですから、映画を見ようと思うなら映画館に行くか、テレビ放映を見るしかなかったわけです。
お小遣いは限りがありますから、あの当時、見たい映画はノートにメモして、リストアップしていました。その中に確かこの1本も入っていたと思います。
しかし結局見るタイミングを逸したまま、今日まで来てしまったというのが本作です。
見たかった理由は2つ。
その1つは、この映画の原作がフレデリック・フォーサイスであったこと。
この前の年に公開された「ジャッカルの日」の原作者が彼でした。
フランスのドゴール大統領暗殺未遂事件の一部始終を生々しく、臨場感たっぷりに描いたこの作品には、いたく感動していたので、彼の原作としては、この次の作品となる「オデッサ・ファイル」には期待していたということ。
そしてもう一つは、監督がロナルド・ニームであったことです。
本作の前に彼が監督した「ポセイドン・アドベンチャー」は世界中で大ヒットしましたが、この作品はしばらくの間は、個人的なベストワン映画であり続けた作品です。
その監督ならば、こちらも傑作に違いないと思っていたわけです。
本作は、ナチス親衛隊たちの戦後の潜伏先を記録した機密文書をめぐるサスペンス・スリラーです。
ナチスをテーマにした映画と言えば、ダスティン・ホフマンが主演した「マラソンマン」が思い出されます。
あの映画を観て以来、歯医者にはいけなくなりましたので、60才を過ぎた今では
僕の歯はもはや見る影もありません。
とにかく、治療用のドリルを持った、あの映画のローレンス・オリヴィエはそれくらい怖かった。
彼が演じたナチス残党のゼルは、架空の人物でしたが、本作に登場するエドゥアルト・ロシュマンは実在の人物です。
カイザーヴァルト強制収容所も、リガにあった実在の収容所で、ロシュマンはその歴代の社長の1人です。
この人物を演じたのは、ドイツの名優マクシミリアン・シェル。
戦争映画で、ドイツ軍将校を演じさせたらピカイチの人でした。
ちなみに、本作では彼の実姉であるマリア・シェルも、主演のジョン・ヴォイドの母親役で出演していました。
ジャーナリスト出身の、フォーサイスはこの辺、「ジャッカルの日」同様、綿密な取材をした上で本作を執筆したようです。
その後、たくさんの戦争映画や、NHKのドキュメンタリー「映像の世紀」などで、ヒットラー率いるナチス・ドイツの戦争犯罪については、それなりの知識も持てるようになりましたが、学校の授業以外で、記憶にある最初のナチス体験はなんだったか思い出してみました。
それは多分、手塚治虫の漫画を原作にしたアニメ「ビッグX」だったと思います。
確かドイツと日本の科学者が、ナチスの元で共同だ開発された秘密兵器が「ビッグX」。
連載された「少年ブック」は、川崎のぼるの「スカイヤーズ5」や、ちばてつやの「少年ジャイアンツ」がお気に入りで結構好きな雑誌でした。

つい先日、立憲民主党の菅直人氏がツイッターで、「橋下徹は、ヒットラーのようだ」と発言して、橋下氏当人ではなく日本維新の会が猛抗議するというお騒がせの一幕がありましたが、思えば、麻生太郎氏が財務大臣現役の時に、もっととんでもない発言をしていました。
「憲法改正については、ナチスの手口を学んだらどうかね。」
よくサイモン・ヴィーゼンタール・センターから抗議文が届かなかったもんだと感心したものですが、我が国のヒットラーの犯罪に関する認識は、広島や長崎の原爆投下のように、当事国ではない悲しさもあるようで、世界常識とは、微妙にピントがずれているように思われて仕方ありません。
サイモン・ヴィーゼンタールといえば、第二次世界大戦直後から、ナチの戦犯を徹底的に追求したナチ・ハンターとして有名だった人。
本作でも、ロシュマン同様、実名で役者が演じていました。
中でも有名なのが、1960年に、アルゼンチンに潜伏していたアドルフ・アイヒマンの逮捕に彼が貢献した事。
アイヒマンの身柄は、イスラエルに引き渡されました。
結局、アイヒマンは、裁判で最終的に死刑を宣告され、イスラエル政府の手で処刑されるのですが、この裁判を全て傍聴したのがハンナ・アレント。
この人は、ユダヤ人の哲学者で、「全体主義の起源」を著者として有名です。
彼女はこの裁判を傍聴した所感を「エルサレムのアイヒマン」という本にまとめています。
「全体主義の起源」は、全3巻からなる大著で、いまだに手に取れていませんが、「エルサレムのアイヒマン」の方は、しっかり読ませてもらいました。
この本につけられた副題というのが「悪の陳腐さについての報告」です。
ハンナ・アレントは、まず元ナチス親衛隊であったアイヒマンが、夥しい数のユダヤ人たちを機械的に殺戮処理してきた冷酷な極悪人ではなく、どこにでもいるごく普通の小市民にしか見えなかったことに驚きます。
アイヒマンは、裁判を通じて最後まで、こう主張しました。
「自分は、国家の一管理職として、上からの命令を、忠実に実行しただけ。そこに自分の意志はない。」
この本における、ハンナ・アレントのキラー・フレーズは、「悪の凡庸性」です。
「凡庸性」というのは、「ありふれたこと」「普通のこと」という意味。
つまり、アイヒマンの悪は、虐殺という行為そのものではなく、自ら思考することや、判断することを放棄し、自分に与えられた命令に盲従してしまったこと。
これは陳腐なものだが、社会のシステムの中に組み込まれた悪であるゆえに、広く世界に蔓延する恐れがある。
アレントは、そう主張したわけです。
果たして、アイヒマンの罪は、死刑に値するものなのかどうか。
ユダヤ人であるアレントは、この裁判を冷静に見つめていました。
国際法上にある「平和への罪」という定義の曖昧さに言及し、そもそもイスラエルに、アイヒマンを裁く権利があるのかという問題をも提起しました。
この裁判の判決を受けて、行われた社会実験があります。
その名も「アイヒマン・テスト」。
これは、普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でも恐ろしい残虐行為に手を染めるものなのかという課題に、一定の結論を導いた実験です。
ミルグラムという心理学者の行った実験の詳細は、Wiki してもらいたいのですが、その結果は、なんとこの課題を明確に証明するものとなりました。
つまり、人間は誰でもが、自分に与えられた「立場」によって、どんなに善良な人でも、悪魔になりうるということが、社会実験として証明されてしまったのです。
頭をよぎったことは、ここ数年の我が国の政府と官僚たちによる目に余る不祥事の数々。
長期にわたる安倍独裁政権の下、忖度せざるを得ない「立場」の中で、公文書改竄や虚偽答弁を強いられてきた哀れな我が国のエリート官僚たちが染まっていったものは、紛れもなく「凡庸な悪」なのでしょう。
アイヒマンも我が国の官僚も、実際は「悪い人」なのではなく、ただ上に逆らえないだけの「弱い人」なのかもしれません。
しかし、自らの意思で考え、判断することを停止してしまったという罪は、それが例え、どんな立場の人であろうとも、場合によっては、死刑に値する罪にもなり得るということだけは、肝に銘じておいた方がよさそうです。
自分の悪事に、それらしい大義名分が用意されたりしてしまうと、人間という生き物は、平気で理性というブレーキから足を外して、どこまでも残虐になれる生き物なのだということでしょう。

保身のために、「凡庸な悪」に走り、そんな自分をなんとか正当化しようとして戦々恐々としている全ての小市民の皆様。
どうか地下鉄にお乗りの際は、ホームの最前列にだけはお立ちになりませぬよう。
オデッサの組織の殺し屋が、あなたを背後から突き落とそうと、隙を窺っていますので。

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