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星の子 2020年

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星の子

安倍晋三氏銃撃事件は、旧統一協会と政界の癒着という大スキャンダルに波紋を広げ、連日世間を騒がせています。
ショッキングなことに、彼らにとって日本は、自分達の活動資金を捻出してくれる絶好の金ヅルでしかないことが明らかになりました。
統一教会は、山上容疑者の家庭のように、長年にわたって積み上げてきた手法で信者をマインドコントロールし、資産があるところからは搾り取れるだけ搾り取った上で崩壊させていく、宗教法人を隠れ蓑にした反社会的なカルト集団であることも、この事件をきっかけに白日の元に曝け出されました。
世界平和統一家庭連合とか、旧統一協会だとか、メディアからはいろいろな呼ばれ方をしていますが、あの統一教会は、今でもあの統一教会。
彼らは、気がつけば、あの頃と中身は何も変わらずに、日本社会と政界へ侵食していました。
僕らの世代は、霊感商法事件も、キャンパスでの原理研の勧誘も、桜田淳子や山崎浩子の合同結婚式での、あの意味不明なバンザイも、いまだに鮮烈に覚えています。
なので、本ブログでも、正体隠し目的が明白な彼らの名称変更は、当時の文部省宗務課の判断に従い、これを認めず、あえて悪名高き昔からの名前通りに、「統一教会」と呼ばせていただくことにいたします。

とにかく、世界で暗躍する統一教会の巨額の活動資金の7割以上が、日本の信者からむしり取られてきたと言うことには唖然とするばかりです。
それは、韓国にとって色々と遺恨のある日本があえてターゲットにされたということなのか。
それとも、日本人が、世界中で最も、搾取しやすい国民性を持っていたからなのか。
これは、考えさせられるところです。
なぜ統一教会に狙われた信者たちは、いつしか正常な判断力を奪われ、彼らのマインド・コントロールの前に平伏してしまうのか。
ここのところも、被害にあった元信者や、「祝福二世」とも言われている協会信者の子供たちの証言をネット動画で色々と見ても、どうにも理解できないところです。
そんな見え見えの詐欺テクニックに、まんまと引っかかる方もどうかしているのではないかという思いはが、今でも正直抜けきれません。
彼らの勧誘と洗脳のスキルは、それほどまでに周到なものなのか。
それとも、その免疫がないものだけがターゲットにされているだけなのか。
ここも、知りたいところです。
実は、僕自身も創価学会の二世です。
学会内では「折伏」と呼んでいた、勧誘説得の現場は、幼少の頃からごく身近でみていましたから、普通の人よりは、その辺りのナマの空気感は理解しているつもりですが、やはり創価学会の活動と、何百万円という壺や数珠、何千万円という経典を購入するという統一教会の搾取行為とは、僕の目からは明らかに一線を画しているように見えます。
なぜ一般常識で考えれば、明らかにおかしいはずの協会の教えや活動に、ごく普通の一般の人々がなんの疑問も持たずにのめり込んでしまうのか。
連日メディアを賑わしている統一教会の報道を聞きながら、その疑問は次第に膨らんでくるばかりでした。
オウム真理教の事件の時にも、それはそれなりに考えたことですが、今回また、統一協会というカルト教団の悪行がクローズアップされる中、改めてその思いが脳裏を駆け巡っています。

おっと、失礼。前置きが長くなりました。
これは、映画感想のブログでした。
では、まず映画はカルトをどう伝えてきたのか。
僕が、覚えている限り、スクリーンで見たカルト新興宗教の一番古い記憶は、あの1955年の成瀬巳喜男の名作「浮雲」です。
優柔不断な妻子持ち(森雅之)との不倫に疲れたヒロイン(高峰秀子)が再婚した相手というのが、怪しげな信仰宗教を立ち上げて、信者たちからお布施を搾り取っている生臭教祖(山形勲)でした。
ヒロインは、この夫の元に集まった信者からの上納金を掻っ攫って、再び妻子持ちの男の元へ走るわけです。
映画の中では短い描写でしたが、この新興宗教の活動風景もしっかりと描かれていて、話の本筋の悲恋物語とは別に、このシーンは個人的には妙に印象に深く残っていました。
戦後間もない頃、食うや食わずの貧しい生活をしていたはずの日本で、この類のいかがわしい新興宗教が一気に広まった背景には、新憲法における「信教の自由」を背景にした宗教法人に対しての税制優遇処置に目をつけたエセ教祖たちの金儲け欲があったのは想像に固いところ。
戦後のような「人心乱れる」ような時期には、このようなカルト教団が、人々の不幸と不安に乗じて、勢いづく下地があったのでしょう。

ビートたけしの原作を映画化した「教祖誕生」という映画もありましたが、これはとんでもないインチキ宗教の破廉恥ぶりを、徹底的に笑い飛ばした毒気のあるコメディ作品。
園子温監督の「愛のむきだし」でも、ヒロイン満島ひかるが胡散臭い新興宗教にのめり込んで行く顛末が描かれていました。
とにかく、日本の「信教の自由」は、金をむしり取るだけが目的のカルト教団には、これまでも、徹底的に利用されてきたわけです。
オウム真理教の後でも、「法の華三法業」や「明覚寺グループ」などのカルト教団が、詐欺罪などで摘発され、解散させられたのは記憶にも新しいところ。
もちろん、純粋に宗教活動に勤しむ団体もあるのでしょうが、やはり、新興宗教という言葉の響きには、何やら胡散臭い、犯罪的な匂いが漂うのは否めないところです。

海外に目を向ければ、カルト教団の多くは、ホラー映画の中で悪役として登場してきました。
僕が真っ先に思いつくのは、ロマン・ポランスキー監督の傑作ホラー「ローズマリーの赤ちゃん」。
ヒロインのミア・ファーローが住むマンションの住人が、恐ろしい悪魔崇拝者という設定でした。
思いつく限りで言えば、ダリオ・アルジェントの「サスペリア」も、最近見た「ヘレデタリー/継承」や「ミッドサマー」も、悪魔的なカルト集団背景に描かれたホラー映画でした。
当然のことながら、ここに挙げたどの映画も、カルト教団の恐怖ついては描いているものの、その彼らたちがどうして、そのカルトに関わるようになったかを描いているものは皆無。
映画におけるカルトは、存在そのものが、初めから怪しげで狂気を秘めていることが前提として、映画の素材として取り上げられているわけです。
そんなわけで、映画の中におけるカルト教団は概ね「いかがわしい」存在として扱われてきました。
少なくとも、カルト教団を、世界を悪の手から救うヒーローとして描いた映画というものにお目にかかったことはありません。
こんな一般常識が多くの人の潜在意識にあれば、仮に実生活で、カルト教団に勧誘されるようなことがあっても、大抵の人は眉を顰めてシャットアウトし、そう易々とは彼らの手口に引っかかることもないだろうとは思うのですが、現実は映画よりも奇なり。
実際は、教団の詐欺まがいの口車にまんまと乗って、高額な霊感商品を買ってしまう人たちがいるのは紛れもない事実なわけですから、首をかしげるばかり。

そんな疑問に少しでも解答を得られる映画がないものかと思っていたところで、見つけたのが本作だったというわけです。

さて、大変前置きが長くなりました。
今回Amazon プライムで鑑賞したのが「星の子」です。
主演は芦田愛菜。
「スマスマ」でSMAPの5人を相手に、無邪気にかくれんぼをして、見ているこちらをほっこりさせてくれた可愛い女の子が、いつの間にか、こんなに凛とした中学生を演じられる女優になっていました。
映画では、カルト宗教にのめり込んだ両親と、それに疑問を持ち始めた姉という家庭の中で育つ次女の目を通した日常が静かに淡々と描かれていきます。
映画が公開されたのは、2020年でした。
映画の中におけるカルト教団のモデルは、おそらく「幸福の科学」だと思われますが、やはり安倍晋三氏銃撃の直接の原因となった統一教会の存在がクローズアップされた今、この映画を見ると、どうしてもそれと重ね合わせてしまうのはやむを得ないところでしょう。
あの大事件が発生した今、日本映画がもしもカルトを取り上げるとするなら、その反社会性は強く強調され、登場人物の中には、カルトとズブズブになった政治家が描かれ、涼しい顔をして、平気で信者から巨額な献金を搾取して食わぬ顔の教祖が登場し、教団が平然と犯罪行為を繰り返す姿が描かれるのかもしれません。
しかし、本作は不気味なくらい静かに、そして淡々と優しく、次女の目に映る日常だけを丁寧に紡いでいきます。
驚くことに、監督は、この作品に登場する人物の誰一人も、いわゆるステレオタイプの悪人としては描いていません。
主人公の家族も、学校の友人たちも、登場する教団も、もちろん、そのスタッフさえもです。
芦田愛菜演じるちひろは、イケメンの教師に片思いをし、授業中にセッセとその教師のイラストを描いているようなごく普通の中学生。
ただ、ちょっと普通と違うのは、愛する両親が、自分の幼少期の病気が原因で、カルト宗教にのめり込んでいることです。
映画は、それを「いかがわしい」でもなく「胡散臭い」でもなく、ただ淡々とありふれた日常として描いていくだけです。
ちひろの病気を治してしまった不思議なパワーを持つ霊水を、両親は近くの公園で毎日頭からかけあう儀式わ行い、ちひろもまたその水の入ったペットボトルを、常にカバンに入れて飲んでいます。
彼女は、学校でも特にそれを隠すわけでもなく、友人にはいじられながらも、「我が家の特殊事情」として、ごく普通に受け入れています。
ちひろの姉は、その「異常」を受け入れられずに、家を出ていくことになりますが、そんな家庭から、ちひろを救い出そうとする叔父夫婦が、彼女を引き取ろうとする提案を、彼女がキッパリと断る背景には、両親がカルト宗教に心酔している根底には、自分への愛情があることをしっかりと感じているからです。
カルト宗教を、こんな目線で描いた映画は、初めてでした。
大森監督は、おそらくカルト宗教自体を描きたかったわけではないのでしょう。
そうではなくて、カルト宗教と、家族愛を対峙させることで、そもそも人にとって「信じる」ということが、どういうことなのかを考えてもらいたいと言っているような気がしました。
前述した、僕の持っていた疑問に、この映画が明確に答えてくれることはないのですが、少なくともその解に、多少なりとも近づけたような気はしました。

前述した通り、僕自身は、創価学会二世でしたから、もちろん子供の頃は、親戚一同皆創価学会という環境の中にどっぷり浸かっていました。
しかし、次第にそうではない環境にも触れていくうちに、覚えているのは、やがて双方の社会での顔を使い分けるようになっていったということ。
ですから、ちひろとは違い、学校での友人たちに、二世であることをカミングアウトしたことはありません。
家族や親戚の前では、「優秀な二世」を演じていましたが、学校の友人たちの前では、そんなことはお首にも出さなかったわけです。
そして、そんな家庭環境から離れて一人暮らしをするうちに、学会関係の人間関係の方が次第に薄まっていき、やがて宗教からは自然にフェイドアウトしていきました。
元々自分の意志で入信したわけではないわけですから、「信心」自体もかなり希薄だったことは事実。
今から考えれば、子供の頃は、周りの大人たちに褒められる快感だけで、「よく出来た二世」を演じていたような節があります。
我が両親はすでに他界していますが、こんな長男を空から見下ろして、果たして今二人でどう話し合っているのか。
いずれあの世で再会したときには、この件に関しては、正直に報告するつもりではいますが、父も母も、案外サバサバとしているかもしれないという気がしないでもありません。
仮に「この親不孝者」「この罰当たり」と叱られたしても、まあその時はその時。
そうなればこちらも、一端の社会経験を積んだ大人として、じっくりと両親と、どこか星が綺麗に見える高台に座って、流れ星を追いかけながら、ゆっくりと宗教談義をしてもいいかなとし思ってはいます。
もちろん、信心があろうがなかろうが、こちらとしては、今でも両親を愛し感謝していることだけは、なんら変わることははありませんから。

映画を見終わってから、ハタと気がつきました。
実は、映画「星の子」は、とても良質なコメディでした。

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