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老年について キケロ

本日をもって、63歳になりました。

還暦の時には、これで自分もいよいよ老人の仲間入りだとニンマリしたものですが、いよいよ本年から年金なるものをいただけることになり、日本という国のシステムの中においても名実ともに老人となれた気がします。
若い時から、ご年配の方とコミュニケーションするのは、好きでした。
爺様なら世俗の欲から抜けられない、ギラギラと脂ぎったエネルギッシュな老人よりも、枯れた素朴で温厚な老人が大好物。
婆様なら、幾つになっても厚化粧で若作りに余念がない、女に未練タラタラのご婦人より、腰は曲がって、クシャクシャな皺だらけの顔でも、笑っている目だけは優しいようなおばあちゃんですね。
かつての美人女優が、老齢を迎えてくると、だんだんとジタバタ感が出てきて、見ていられられなくなりますが、齢を重ねるという自然現象に、無理に逆らおうとすればするほど、見苦しい老人になっていくような気がします。
よく行く図書館に、俳優の笠智衆の写真集があって、立ち寄るたびに眺めるのですが、あの佇まいが、僕の老人としての理想です。
63歳では、まだまだあそこまで枯れた老人にはなれませんが、多少は「怪しい」老人を経由しつつも、最終的にはあの境地に達したいと思っています。
何かと、煩悩に振り回された人生を送って参りましたので、残りの人生でしっかりと収支決算が出来るよう精進したいところです。

さて、その図書館で借りてきたのが、ローマ帝国の政治家で、哲学者でもあり、大弁舌家でもあったキケロの「老年について」。
今から2000年以上も前の書物なのですが、読みやすいように、対話形式で書かれています。
著者であるキケロをモデルにした齢84歳になるカトーという老人に、2人の若者が教えを乞うというスタイルで、遠いローマ時代の老人問題が深掘りされていきます。
2000万円用意しておかないと老後生活が立ち行かなくなると言われている我が国です。そんな貯金は到底持ち合わせていない身で、どう老後を暮らしていこうかという心配は、それなりにありましたので、何冊かは老後系の本は手にしましたが、正直どれもこれも実用書みたいなもので、まるでピンと来ませんでした。
それよりは、社会の仕組みや文化もまるで違う2000年も前の哲学書でも、時代に埋もれずに読み継がれてきた本書の方に、人間の普遍の問題である「老い」に対する最適解があるだろうという気がしたわけです。
少なくとも、今書店に並んでいる「老後」関係の本で、2000年経っても読み継がれている本があるとは到底思えません。

青年たちの問いに応える形でカトーは、「老い」が疎まれる 4 つの理由を挙げています。
そして、その一つ一つに対して、 古今の様々な思想や、実在の人物たちの老いの姿を当意即妙に引き 合いに出しながら説明し、老いることが必ずしも不幸なことではなく、心がけ次第では、むしろ人生の完成の時期への花道にさえなることを論じ ています。

カトーが、一つ目に挙げたのは、老人になることによる活動性の低下です。
心 身の衰えによって、これまでの仕事から、引退せざるを得ないことは、確かにあるだろうと、カトーは言います。
けれどこれに対し、まず、たとえ体力は衰 えても、その経験値と精神力を活かした老人に相応しい仕事もあるだろうと主張するわけです。
しかし、これは2000年経った今では、状況は少々変化していますね。
平均寿命も、健康寿命も大きく伸びた、現代の超高齢化社会においては、まず社会中枢の老人化が著しく進んでいます。
そんな元気な爺様たちは、いつまで経っても現役を離れようとしません。
要するに、元気過ぎる彼らが、自分の努力で築き上げた地位から退くことを潔しないわけです。延々とその権力の座に居座り続けることで、それまでの努力の元を取ろうというとでもいうような浅ましい老害化は、今の日本政府を見ても一目瞭然。これがどの社会でも浸透しているので、いつまで経っても上にいけない若者たちがその犠牲になっているという図式ですね。
カトーが例を挙げた人物像は、少なくともこういった権力にしがみつきたいタイプの老人ではありません。
老人としての立ち位置を、きちんとわきまえた上でも、活躍の場所はちゃんとあると彼はいうわけです。
僕は運送会社に30年勤めましたが、多少パソコンによるデジタル化に貢献できた程度で、肝心な運送に関する技術スキルや、管理ノウハウは、恥ずかしながらまるで身につきませんでした。どうやら真面目な社員ではなかったようです。
ですから、カトーには申し訳ありませんが、そのまま勤めていても、経験値で会社に貢献出来ることはなかったように思います。
カトーの金言がこれ。
「老年を守るのに最も 相応しい武器は諸々の徳を身につけ実践す ることである」
いやあ、これを言われると、爺いとしてはただうなだれるのみ。
到底、人徳を獲得するには至らなかった情けないサラリーマン時代でした。
なので、定年退職を待って、思い切って農業を始めたというわけです。

さて、カトーが、二つ目に挙げたのは、体力の低下です。
当然のことながら、老年期になって体力が 衰えることからは逃れられません。これに対処するに当たってカトーが主張するのは、「在るものを使う」と いう原則です。つまり、何事も自分の持っている力量に応じて行なうということであり、体力がないのなら、むやみにそれを求めることは愚の骨頂というわけです。
つまり、体力がすべて であるような活動は、若い頃であれば、それなりに価値もあるにせよ、老齢になっていつまでも固執すべき類のものではないということ。
その代わりに、年を経るごとに充実していく精神活動へと軸足を移すべきであるというわけです。
昔では考えられなかったことですが、最近では40歳を超えても現役を続行する野球選手が増えています。サッカー選手の三浦和義も、50歳を超えても現役に固執し続けて、毎年それが話題になっていますが、84歳のカトー老人がこれをどう考えるかです。
体力の低下を受け入れようとせずに意地になっているだけの自己満足なのか、それとも、もはや、現役にこだわり続けることが、彼にとっての精神活動になっているのか。
人間である以上、体力の低下は、どうあがいてみても、避けようのないことではありますが、ただ個人的な経験として言えることは、動き続けることによって、その低下の速度には、多少なりとも抗えるということですね。
自分の運送会社での経験で言えば、最初の10年間は、現場でたっぷりと汗をかいていましたので、学生時代の体力はキープ出来ていましたが、その後の10年間事務所に上がってパソコンに向かうことが仕事になってからは、体力は目に見えて低下していきました。おまけに、体重は現場時代よりも、一気に15キロ急増。
年に一度の健康診断では、中性脂肪、血糖値、尿糖値などは全てレッドゾーンに振り切った状態になってしまいました。
これに強烈な危機感を感じたことがきっかけで、定年後の農業トラバーユを真剣に考え始めたというわけです。
60歳を過ぎてから百姓をしようというわけですから、体が動かなくてはお話になりません。
そこで、会社を説得して、現場に復帰したのが、50歳の時です。
そこからは、毎日平均12000歩を歩く現場仕事を続けつつ、ダイエット作戦を敢行。
およそ、一年半をかけて、再び体重を15キロ落とすことに成功しました。
そして、定年までの10年間は、現場で歩き続け、百姓を始めてからも、雨の日以外は、盆暮日曜は関係なく、毎日畑に行って、農作業に従事している毎日です。
今は、定期的な健康診断は受けられない身になってしまいましたが、毎日測っている体重と、血圧は定年退職後はずっと変わりません。
隣の畑では、今年84歳になる爺様が野菜を作っていますが、すっかり腰も曲がった老人は、今日もニコニコ笑いながらこう言ってます。
「体がキツくなったら、作る量を減らせばいいだけだから。」
例え体力が低下しても、自分もこの年齢までは野菜が作れると思うと、いい励みにはなります。
体力の低下は、無理せず、コツコツと続けることで、最小限に抑えられると踏んでいます。

さて、3つ目は、快楽の欠如。
さあ、助平爺としては、ここが最も考えさせられるパートでした。
カトーは、老年期 に性的快楽が失われることをあたかも人生の喜びがすべて無くなったかのように嘆く声を一蹴します。
そして、物は考えようでしょうとばかり、こう言い放ちます。「理性と知恵で快楽を退けることができぬ以上、 快楽から生理的に遠ざかることのできる老年というものには、逆におおいに感謝しなければならない。
まず、カトー老人のおっしゃる性欲の減退が、果たして今の自分に訪れているのかという問題は直視しなければいけないでしょう。
ちなみに現在の僕は、63歳の独居老人ですが、自分の周囲を見回す限り、同世代の友人夫婦たちは、皆ほぼ例外なくセックスレスと言っていいと思います。
では、そんな彼らが、奥様以外のご婦人との性交渉をしていないのかといえば、ここは微妙なところ。
もちろん、不倫をしていたとしても、こんな口の軽い友人に白状することはないでしょう。
しかし、そんなことは例えしていなかったとしても、それでは、彼らに性欲自体もなくなっているのかといえば、これもまた微妙なところ。
とある友人の1人は、一人暮らしの我が家に、僕の不在時に訪れては、1人で昼間からアダルトDVDを鑑賞したりしています。
こういう輩に、果たして性欲は欠如していると言えるのかどうか。
もちろん、彼に家庭での性交渉は皆無です。
なので、これもまた微妙なところです。
ただ、はっきり言えることは、若い頃と比べれば、下半身の能力は明らかに低下していることだけは間違いなさそうです。
しかし、能力と性欲とは、ちょいと話が違うような気がしますね。
多分男子というものは、たとえ勃起することができなくなったとしても、そうなればそうなったなりの性欲の発露があるように思います。
ちなみに我が家には、500枚を越すアダルトDVDがありますが、そんなコテコテのAVマニアとして、断言できることは、どうやら日本のアダルトDVDのマニアックな多様性は、今や世界一の水準であるということ。
とにかく、老人を含め、どんな性嗜好のファンにも対応するその懐の深さと、AV女優のグレードの高さは半端ではない気がします。
つまり、たとえご夫人に対する性欲は萎えたとしても、それにあまりある快感を、AV鑑賞で補える可能性があるのではないかという気はちょっとしてします。
要は、くたびれ果てた妻とのセックスと、自分好みのピチピチAV女優のアダルトDVD鑑賞では、どちらが快楽かと言う話です。
ここはカトーが言うように、性欲という煩悩から解き放たれることで、何かに集中できることになるという、やや無理矢理感のある老年のメリットを讃えるよりは、老年になっても性欲という快楽を昇華してくれる21世紀のアダルト文化の方に感謝するべきかもしれません。
まさか、こんな文化が、人間の性欲のコントロールに貢献している世界になっているなんてことは、ローマ時代には考えも及ばなかったに違いありません。
いずれにしても、性欲はなくならなくとも、それを上手にコントロールできれば、つまらぬ煩悩のために、前向きな精神活動が阻害されることはないということは言えるかもしれません。
結果は、どちらでも同じこと。
ブログには、あいも変わらず、アップし続けている読書感想文や、映画感想文を読んでいだければ分かる通り、僕は病的な「作文オタク」です。
これは、言ってみれば、老年になってからもずっと続けることのできる、自分なりの精神活動であるとも思っています。
ならば、いっそのこと、アダルト寄りのライト・ノベルでも書いてみれば、案外性欲と精神活動の双方を、老人なりに消化できるかもしれません。
なにやら、「快楽の欠如」を、性欲一本で考えてしまいましたが、もちろん快楽には、食欲もあるでしょうし、権力欲も、物欲もあります。
僕の場合、権力欲は元々乏しいようですし、物欲も、定年退職後はさすがに、財布の事情が許しませんので、現役の頃のような衝動買いはなんとかコントロール出来るようになりました。
食欲に関しては、現役時代に敢行したダイエットの習慣が、しっかり身についているので、なんとか抑えられています。
おいおい、そんなに何から何まで禁欲的な暮らしでは、楽しい老後は送れないのではないかと思われるかもしれませんが、これを補ってあまりあるのが、実は野菜作りの楽しさですね。
今では、すっかりベジタリアンになってしまいましたし、毎朝畑に出勤するのが楽しくてしょうがないという経験は現役時代にはありませんでした。
野良仕事は、一年中がしっかり肉体労働ではありますが、同時に、僕にとっては精神活動でもあるようです。
おまけに、健康にさえ留意すれば、少なくとも84歳までは続けられる可能性のある仕事ですので、これもありがたい限り。
その他の、多少の快楽は犠牲にしても、これが続けられれば、充分にお釣りは来る快楽だと思っています。

さて、最後の4番目は、人間として逃れられない死についてです。
全ての人に とって自分の死というものは、不安で恐ろしいものかもしれません。
誰もがいずれは老年に達し、やがては最期を迎えることになるが、これは極めて自然なことであると、カトーは2人の若者に諭します。自然であるがゆえに、それは、決して憂うものではない。
死について、カトーはさらにこう続けます。
青年が死ぬのは盛んな炎が多量の水で鎮められ るようなものであり、他方、老人が死ぬのは、燃え 尽きた火が何の力を加えずともひとりでに消えてい くようなもの。死は人生にとって極めて自然なものであり、成熟のあとの完成を意味するもの。従って、老人はこれを恐れず、むしろ、いつ死が到来することになってもよいよう心構えができていなくてはならない。
これは、百姓をやっていると妙に共感できます。
少なくとも、野菜は人間が作っているという感覚は、この6年間の野菜作りの経験の中で、次第になくなってきましたね。
野菜を作ってるのは、紛れもなく自然です。
土であり、太陽であり、水であり、空気です。
人間は、そのお手伝いをしているだけ。
そんな感覚ですね。
うちの畑は、無農薬、有機肥料でやっていますが、こちらが余計な手を加えなくても、彼らは畑の中で見事に循環しています。
タネは発芽して苗になり、定植した苗は成長して実をつけます。収穫された野菜は人間の胃袋に収まりますが、残った実はやがて枯れ、その残渣は、全て畑に漉き込まれて土に戻ったり、堆肥になります。
そして、次のシーズンには、そこにまた種が蒔かれるわけです。
人間が地球に登場するはるか昔から繰り返されてきた、植物たちと自然環境の相互共生システムには、驚くほど全く無駄がありません。
しかし、その完成されているシステムに、自らのエゴのために、割込んできた人間の都合による「余計なおせっかい」が、現在の世界中の農業問題の全てです。
カトーは、本書の中で、農民たちについても、こう触れています。
彼らは、高齢に 至ってもなお、種まき、取り入れ、貯蔵などの大切な 農作業において要の役割を果たしている。
そして収穫を目指す仕事とは別に、遥か将来のためにも、次の世代に役立つよう にと木を植えている。
人間はともすれば、自然の生態系のその上に君臨する特別な存在と勘違いしてしまいがちですが、人間も植物たちと同じように、生存するためのノウハウを引き継ぎながら自然の循環の中で生きている「自然」であることは変わりないということ。
そう考えれば、死は全ての生の終了の瞬間ではなく、生命という永遠のループの中の一場面に過ぎないということ。
これは、意外にすうっと受け入れられました。
この6年間の野菜づくりの経験からなのかもしれませんが、自分の死については、実はそれほどの恐怖がありません。
来る時が来れば、どうぞという感じでしょうか。
おそらく、体が動く限りは百姓を続けているつもりですが、少なくとも、それも含めた精神活動が出来なくなってしまったら、もはやこの世に未練はありません。
ただ生きるためだけに延命処置をされることだけは、勘弁してほしいという思いだけがあります。
幸いかな、家族はいない身ですので、自分が生命を維持するためだけに、遺漏や点滴、人工呼吸を施すような医療による「余計なお節介」は、明確にノーサンキューと言っておきます。まさに、畑の野菜の気持ちです。
せっかく百姓をやってきたわけですから、そこはやはり「自然」にこだわりたいところです。
延命治療を拒否したからといって、間違っても「自殺」などとは思わないでいただきたい。
もしも、病院ではなく、自宅でご臨終という場合も想定しておきましょう。
この場合、息を引き取ってから数日後に発見なんていうことになれば、今のマンションに住んでいたとしたら、新聞の社会面の片隅には、「独居老人マンションで孤独死」なんていう記事になるのかもしれません。
しかし、もしも息を引き取る瞬間に、畑に撒いた小松菜の発芽状態を思い浮かべていたとしたら、おそらくその死に顔は満更でもない顔をしているはずです。
その時は、たとえ新聞の記事がどうであろうとも、どうか、この老人は、不幸の中で死んでいったとだけは思わないでいただきたい。

こんな老人の言う事、キケロ?

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