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興亡の世界史③ 歴史の転換点、ローマに消された大国その2

興亡の世界史③ カルタゴその2

ローマは明らかにこの時代の主人公だ。西洋史という括りにはなるだろうが、歴史を探る上でも、ローマ以前と以降では遺跡や資料の数に大きな隔たりがあるようだ。それは単に時代の古さというよりも、現在まで続くヨーロッパという歴史のスタート地点が、ローマだからなのであろう。

小さな都市国家から始まった後の帝国は、エルトリア人を王に戴き、彼らの建築技術を手にした。だが他国の人間であった王に好き放題された結果、ローマは王を持たない共和制となった。その後も幾多の敗北の度に力を増し、地中海沿岸を手始めにヨーロッパの広大な土地を平らげ、イギリスのあるブリテン島にまで食指を伸ばす。

カルタゴと争った時代、ローマは若く、拡張期にあり、カルタゴはその波に飲まれる事となるが、カルタゴとてただ体のいい添え物、主役を引き立てる悪役だったわけではない。

この時代、主人公はもう一人いるのだ。そのたった一人の男にローマという国は恐怖し、自らの滅びを覚悟する。ローマ打倒を宿命づけられたカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカである。

ハンニバルの父、ハミルカルと娘婿であるハシュドゥルバル、そして息子ハンニバルは共に、現在スペインのあるイベリア半島を目指す。

道半ばで父ハミルカル、義兄ハシュドゥルバルを亡くすが、戦術の天才ハンニバルは、若くしてスペインに領土を切り取る事に成功する。

そしてローマと敵対していた北イタリアのガリア人と協力関係を結び、アルプス山脈を超えて北からのローマ攻略に乗り出した。第2次ポエニ戦争の始まりである。その後の活躍は古今東西、色々な書物で語られている。

ティキヌス川の戦い、トラシメスの戦い、そして8万の大軍を打ち破った歴史に名高いカンナエの戦い。大軍のことごとくに勝利したハンニバルだが、その戦いは2000年以上たった今でも軍事の手本とされている。戦いの基本は今も昔も変わらない。戦争でも、あるいは政争、情報戦でも、いかに効率よく相手を囲み、棒で殴るかが大事なのだ。カルタゴという国はこの後、消滅することとなるが、ハンニバルはその鮮やかな包囲殲滅術により、今もなお歴史に名を残している。

ローマを滅亡寸前まで追い込んだハンニバル。だが嫌な意味で負け慣れているローマは、滅亡が頭をよぎっても降伏はしなかったし、ローマ包囲網を共に築いたマケドニアや本国カルタゴはパッとしない。挙句にアフリカ本土を攻め込まれたカルタゴはこれを抑えきれず、イタリアで無敗を誇っていたハンニバルは負けずして本国に戻されることになった。

そして第2次ポエニ戦争の最終戦である、カルタゴ郊外で行われたザマの戦いで、ついにハンニバルはローマに敗れてしまうのだった。

その後は軍を持つことの禁止や、先の戦争以上の賠償金、ローマの了承なしに戦争を起こしてはならない(たとえ侵略されようとも)など、いくつもの厳しい条件のもとに、和平がなった。

ハンニバルは国家の代表たるスーフェースに選ばれ、敗戦と重い賠償金にあえぐ故国の再建に乗り出す。任期終了の後にハンニバルは国を追われることとなるが、数々の改革を成功させたことで、ローマに対する賠償金を繰り上げて返済できるほどにカルタゴは復興した。

カルタゴは当時の地中海周辺においてもっとも強大な国の一つだった。ローマはそのカルタゴに打ち勝つ事で大物食いに酔いしれた。

第2次ポエニ戦争の後、ローマは征服欲を旺盛にし、マケドニアやギリシア、中東(フェニキアのあった地だ)、エジプトなどへの征服を望みはじめる。

勝利という名の美酒がローマをアル中にしたのかもしれないが、外征に成功した指揮官はローマ市内で盛大な凱旋式を行うことが許され、これを行えるかどうかが政治的に重要なファクターとなった。

ローマは内向きの政治闘争のために他国への侵略を望み、地中海周辺国はその煽りを受けることになる。もちろん、カルタゴも。

カルタゴが近隣国から領土を侵略されても、双方の国の盟主であるローマは何一つ調停を行わなかった。やむを得ず抗った戦いを見とがめたローマは、和平条約違反の懲罰を理由として再度カルタゴへの侵攻を行う。

もはや抗う術を持たないカルタゴは、どうにかして戦争を回避しようとローマに許しを乞うた。

武器をすべて捨てろと言われれば捨てた。軍港を閉じろと言われれば閉じた。多数の貴族の子女を人質に送れと言われれば送った。彼らはもちろん帰ることはなかった。だがしかし、幾度要求に応えてもローマは軍を引かない。弄ばれた挙句、ローマはカルタゴの民にカルタゴを捨てろと命じた。カルタゴの民はそれに従わなかった。3度目の、そして最後のポエニ戦争が始まった。

カルタゴに軍はなくとも、市民は老若男女、一致団結してローマの侵攻を防いだ。家の金物を鋳つぶして作った武器で戦い、壁に穴が開けば夜通しかけて塞いだ。戦争の口実となってしまった部隊は健在で、外からローマと戦った。だがついに海上からの補給路を断たれ、カルタゴ市内への侵攻を許す。

カルタゴ市内に流れ込むローマ兵の有り様は凄まじいもので、侵攻の邪魔となるよう作られた通路の穴は人ごと埋められ、兵士たちが殺しに倦まないよう定期的に休みを入れながら、何日も殺戮が繰り広げられた。

こうして市民は全て殺されるか奴隷となり、カルタゴの市内は徹底的に破却され、打ち捨てられた。ローマはしばらく後もカルタゴへの入植は許さず、カエサルの代になってようやくこれを試みたが、ローマの新しい都市はカルタゴの遺構に覆いかぶさるよう作られた。こうしてカルタゴはローマによって消滅させられ、700年近くに及ぶ歴史に幕を閉じた。

ローマ以前とローマ以降で地中海周辺の有り様は大きく違う。

ひとまとまりに括るのは乱暴だが、中東一つとってみてもフェニキアはもとより、鉄を生み出したヒッタイト、ヒッタイト滅亡の後に強力な帝国を築いたアッシリア。
「ここは俺達の土地だと神様が言ったから、今日からここは俺達の土地な」というヤベー理由で入植してきたイスラエル王国(衝突もあったようだが交流を通じてこの地に落ち着くことにはなったらしい)。そこから分裂したユダ王国を滅ぼし、バビロン虜囚により、イスラエルの民(ユダヤ人)のアイデンティティを打ち砕こうとした新バビロニア王国。

そしてこれらを統一し、やがて大きな共栄圏を築いたアケメネス朝ペルシアがあり、地中海の交易、海運を司っていたフェニキアがあり、カルタゴがあった。

彼らの歴史はまるで神話のように遠く感じる。現代から見るとローマの影に隠れてよく見えないのだ。彼らの一生を探ろうとしても痕跡はかすかで、結局ローマ時代に遺された書物を辿るしかないからだ。

第3次ポエニ戦争時のローマの嗜虐さにはドン引きだが、カルタゴとて高潔な国であったわけではない。利益を重んじる商人の国は、富のために多くの人を踏みにじった。

だが遠くにあるものは、それゆえにこそ魅力的に写る。ハンニバルのような一際輝く才能や、散り際の悲劇はなお一層鮮やかに写る。

だからこそ「もしも」を考えてしまう。ローマの破滅まであと一歩まで迫ったその後の「もしも」を。

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