私の体験談に価値はあるのか?
吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。
「自分の存在価値はあるのか?」
こういう深そうで浅い哲学的質問を、無性に自分に投げかけたくなることがある。そして大抵は、自虐的な結論に落ち着くことになる。
一方で、こういう自問自答をしたことがあるだろうか。
「自分の体験談に価値はあるのか?」
そう自分に問いかけたとき、私はちょっと前まで、「誰も経験をしたことがない体験談を語れれば、自身の魅力を引き立てられる」と思っていた。
でも、それは幻想に過ぎなかったのだ。
実際には、「魅力のある人の体験談にしか価値がない」のだ。
例えば、大谷翔平や藤井聡太の幼少期の体験談であれば、好んで聞く人がいるだろう。
他方、私の体験談なんて、そもそも誰も聞く耳を持たないということは、冷静に考えれば明白な話だ。そんなものを積み重ねたって、自分の魅力につながるわけがない。むしろ自身の体験に酔っているナルシストで痛い奴だと思われる。
そもそも、「魅力のある人の体験談にさえ、価値がない」と言われるようになってきた。
以前、統計学YouTuberのサトマイさんが、こんなことを話していた。
ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね?」が小学生の流行語1位になったというニュース(ベネッセ社が2022年に発表)が記憶に新しいが、ここにも表れているとおり、昨今の風潮は、個人の感想や体験談の比重というのがやや軽くなってきたと思う。
SNSでは自身の経験談を盛り盛りに美化してコンテンツ化している人が多く見受けられ、そのコンテンツを有料であっても入手することが有意義だと考える人たちがいる一方で、そうした売買を搾取だと嘲笑う人たちもいる。
そんな中でこの情報社会では、メンタリストDaiGoの影響もあり、「○○大学の研究結果を踏まえると〜」といったように、自身の経験談ではなく、心理学等の研究を持ち出して、生き方戦略を発信する人も多く見受けられるようになった。
ただ、この研究というのも取り扱いが難しいわけである。
そんなこんなで、寄り道をしながら綴ってきたわけだが、いずれにしても、凡人の私が歩いてきた道(経験談)なんてものは、価値がないのだ。
でも、本当に価値がないのか?
私は、自分の体験談というものは、自分を魅力的な人間に見せるための(ある種自慢の)手段とか、自分の人生を正当化するための手段だと思っていた。
例えて言えば、体験談というのは、見た目は豪邸だけど、中身は何もないハリボテのようなものだ。
そんなものに惹かれて集まる人たちはきっと、他人を中身ではなく、外見やステータスしか見ずに評価する人なのだろう。
だけど、体験談自体に価値がないのだとしても、体験談を面白そうに話すこともできるし、安心させるように話すこともできるし、怖がらせるように話すこともできる。
私は、「体験談を通じて、相手の感情をどのような方向に動かしたいと思うのか?」という思考にこそ、価値があるのではないかと思う。
決してカレーにはなれないけど、福神漬けにはなれるというのが、体験談の本質なのだと思う。
歳をとった私には、自分の存在意義や体験談には、絶対的にも相対的にも価値がないということは、他の誰よりも理解してる。
でも、「他人の感情をどのような方向性に動かしたいと思うのか」ということは、他でもない私が選択できることだ。
最近はスマホユーザーの拡大に伴い、人々に不信感・嫉妬心・不安感など、負の気持ちを煽るようなネットニュースを目にする機会がとてつもなく増えた。
人間は無意識に、負の感情を好んでしまう。だから、こういった負の気持ちを煽るニュースはバズる。お金儲けが上手な人はそれをよく知っているから、負の気持ちを煽ることのできるニュースをまた生み出す。
社会は治安が良くなっている(あるいはあまり変わっていない)のにも関わらず、メディアの報道の仕方によって、体感的に治安が悪くなっているように感じるということは、昔から指摘されていることであった。
そんな中で、私は何を選択するのか?いや、何を選択したいのか?
そんなの決まっているじゃないか。人間の本能に逆行してでも、相手に希望を感じさせることが、大事に決まってる。
体験談自体には価値はない。自己承認欲求を満たすために、体験談をいくら脚色したって、自分というニンゲンに魅力は生まれない。
でも、そんな体験談を話のネタに、周りの人たちに「あしたまた頑張ろう」という気持ちを与えようとする過程を、途方もなく幾度と繰り返すことで、自分というニンゲンとしての魅力が生まれるのではないか。
野良猫のように生きる覚悟を決めた私は、その信念を胸に、歩みを止める気はない。
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