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婚活が疲れる理由を心を抉って(えぐって)考えてみる。

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

巷では、結婚する人のうち、5人に1人がマッチングアプリ婚と言われるようになった。

私の周りでも、マッチングアプリで結婚する事例がアメーバの細胞分裂のように増殖しており、意識的に結婚を目指す、いわゆる「婚活」というやつが身近なものになったように思う。

-運命の相手に出会える-

そんな、煌びやかなマッチングアプリの宣伝文句に騙される愚かなニンゲンなんて、いるのだろうか?

ほかでもない、私だ。

5年間も恋人のかげもなかった私が、30歳を超えて、いよいよ結婚をしたくなり、マッチングアプリで婚活を始めることになった。輝く希望を胸に。

ただ、そこにあったのは、燦然とした世界とは程遠い、職業、年収、年齢、身長、見た目、学歴…すべてが残酷に数値として評価される死海だ。

異性との連絡が続くように、小手先で工夫できる、アプリのプロフィール文と写真を見直し続ける。

そして、複数人と並行して、好意溢れるメッセージを送り、二人きりで複数回デートをして、突然相手が消える。逆に、こちらから消えることもある。この終わりの見えない輪廻を、歩むことになる。

まるでこれ、「就活」じゃないか。ちょっと違うのは、双方が取捨選択権を持っており、採用人数は皆たった1人しかいないということだ。(私の知人で、アプリを通じて並行して2人と付き合うケースもあったが、ここでは例外としておこう。)

私が、婚活でツラいと思うのは、体の中で淡く感じる劣等感だ。でも、なぜ自分は、劣等感なんてものを感じているのだろうか。心を抉って(えぐって)、考えてみよう。

私が特に劣等感を感じたエピソードを、急に語り出してみる。

3回デートをかわした異性で、次は4回目のデートという時だった。これまで仲良くLINEをしていたのに、急に塩対応になった。会話履歴を見ても、地雷を踏んだ形跡はなかった。

そして、4回目のデートとなった。これまで、「面白いですね。」という共感が多かったのに、「そういう話は面白くないです。」という拒絶が多くなった。

きっと、彼女は無意識に、そういう姿勢に変わっていたのだろう。こんなことは、婚活ではよくある話だと思うが、これは自分よりも良い人を見つけたときの一つのサインなのだ。

この態度の急変に対して、私の頭の中で負の感情が蛇のように蠢く中、特に「劣等感」という名の付くものが大きかった。

ここ最近、ベストセラーとなった小説『傲慢と善良』を読み始めた。幸か不幸か、たまたま読んだこの小説のテーマが婚活であり、序盤にこんなセリフがあった。

「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」
(中略)
「値段、という言い方が悪ければ、点数と言い換えてもいいかもしれません。その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、〝ピンとこない〟と言います。──私の価値はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段とは釣り合わない」

辻村深月(2019)『傲慢と善良』朝日新聞出版

これを読んだとき、思ったのだ。相手から拒絶されることに対して、「劣等感」を感じる理由は、自分の心の奥底で他人と自分に値段をつけていたからなのだろう。言い換えれば、「相手から拒絶される=他人より自分の値段が低い」と思い込んでいたのだろう。

逆に、婚活では一人に絞らなければいけないため、自分自身が彼女と同じように、これまで好意のあるメッセージを送っていた誰かを、拒絶することもある。そこには、刹那的な罪悪感がある。この罪悪感はきっと、心の奥底で他人に値段をつけるということから生まれているのだろう。

私は、「訳あって」実家暮らしなのだが、実家暮らしと伝えた瞬間、相手からブロックされることもある。そりゃ、男としての価値は一気に下がるよな。「訳あって」と抗弁して自分の値段を必死に据え置こうとするのも、自分自身のしょうもない自尊心に虫唾が走る。

ここまで、自分の心を抉ってみたわけだが、決して同情されたいわけじゃない。同情されるほど、前世で善い行いを行っている自信はないのだ。

みんなが同じ条件で、自分自身の意志で参加する婚活でさえ、何かあれば酷い目にあったと思い込んでしまうのだから、ニンゲンという生物は、本当に身勝手に設計されているものだ。

でも、完璧であろうとするために、自分の身勝手な部分を必死に押し殺し、無理して善人を演じる必要は一切ないんだと思う。むしろ、自分の汚い部分を認めてこそ、自分の願望を叶えるために、前向きになれるものなんだと思う。

そんなことを考えながら、世の中で言われている「婚活疲れ」という感覚が、3ヶ月間婚活してみて理解できたのだ。

他方、婚活を一度でも経験すると、年齢という数字が上がるたびに、残酷にも自分の市場価値が下がることが頭で理解できてしまうので、時間に抗うことのできない我々は、婚活沼から抜け出すことができないのだ。

婚活でお互いに演技をし合うことを続けてきて、私は、エヴァンゲリオンの碇シンジ並に、ATフィールド(他人との心の壁)が高くなっているように思える。いや、碇ゲンドウ並かもしれない。

使徒とエヴァの間のATフィールドは、人と人との心の壁を表す

そういえば、私は以前にお付き合いしていてから、空白の5年間がある。まさに、エヴァンゲリオンじゃないか。

そもそも私は、恋多きニンゲンではなかったため、そもそも愛というのをきちんと理解していないのかもしれない。そして今回の婚活を経て、愛について、私の中ではフェルマーの最終定理のように難解なものとなっている。

まだまだ、吾輩は猫を被っていなければいけないようだ。

次回は、愛について、自分の心を抉りながら、考えてみることにする。

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