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陰キャである私が、エッセイで自己表現をし続ける理由。

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

前回の記事では、「何者」かを目指していた自分が、それを諦めたら気楽になった経緯を綴った。

それでは、なぜ、陰の中で生きることに満足した自分が、エッセイを書き続けるのか?

猫を被った自分の手のひらの肉球に、問うてみることにした。

世の中には、「こういう人格が優れている」という、うっすらとしたニンゲンの理想像がある。

社会に出ると、利害関係者に囲まれた中でお金を得るため、脆弱で形のない自分の立場を守る必要があり、そのために自分の綺麗な面を見せ続けないといけない。

特に、芸能人が顕著だろう。私生活で小さなスキャンダルでも起こせば、あたかも指名手配者のように、その姿を醜態のように晒される。

最近は一般人であっても、SNS上で自分の権威を保つために、モラル違反をした人を徹底的に晒しあげて罵り、自分の良識的な行動をアピールして聖人ぶる。

なんだか、どこもかしこも聖人ばかりで、ちょっとでもスキを見せたら攻撃されるような、疲れ切った世の中になってしまった。

最近、流行っている『推しの子』というアニメで、とあるキャラクターがアイドルにスカウトされるシーンで、こんなセリフがあった。

スカウトされる女の子「アイドルってみんな愛してるぞっていうじゃん。私が言ったら嘘に…」

スカウトする男「嘘でいいんだよ。むしろ客は綺麗な嘘を求めてる。嘘をつけるのも才能だ。」

アニメ『推しの子』より

なんで、最近の世の中には、聖人が溢れているのか。

それは、きっと「優しい嘘」を求めている人が増えているからなんだと思う。

逆に、聖人を演じる側としては、アイドルのように人気になるために、「綺麗な嘘」を求めているお客さんから支持が欲しいのだろう。

私だって、「何者」かを目指していたときは、自分の心に嘘をつき、汚点は必死に隠して、良い面を徹底的に美化して語ろうとした。

でも、私には嘘を貫き通すのは、絶対無理だ。きっと、スキャンダルを撮られる側…すなわち狩られる側になってしまう。

そう思った瞬間、自分には、「何者」かになれる才能なんてなかったのだと悟った。

だから、自分は「綺麗な嘘」が売買される市場からは離れ、陰の中で生きることにした。

それでは、最初の問いに戻る。なぜ、自分はエッセイを書き続けるのか?

ちょっと前に流行っていた、『ぼっち・ざ・ろっく』というロックバンドを結成してキャラクターたちが成長していくアニメで、陰キャ(コミュ障)の主人公が作詞に悩んでいたときに、こんな掛け合いがあった。

主人公のバンド仲間「個性捨てたら死んでるのと一緒だよ。だから、色々考えてつまんない歌詞書かなくていいから。ぼっち(主人公のあだ名)の好きなように書いてよ。

陰キャの主人公「けど、そうすると根暗でどんよりな歌詞が…。」

主人公のバンド仲間「でもそれ、リア充っ子に歌わせたら面白くない?バラバラ個性が集まって、一つの音楽になって、それが『結束バンド(主人公が所属するバンドの名前)』の色になるんだから。」

アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』より

誰かから認めてもらうために作り物の自己表現を繰り返したって、その表現は誰かのコピーばかりで、他人からは魅力的に映らない。

自分の心から生まれた言葉じゃないと、その音を響かせることは絶対にできない。

私は、多くの人に認められたいわけじゃない。それでいて、誰かに影響を与える人になりたいわけじゃない。

けれど、ありのままの自分を、陰キャである自分という存在を、誰かに承認してもらいたいだけなんだ。

世の中にあるビジネス書では、「承認欲求を捨てよ」という能書きが溢れている。

もしかしたら、学説としても、合理的に考えたとしても、承認欲求は捨て切った方が良いのかもしれない。

でも、か弱い自分にとっては、そんなことは絶対にできない。

一人が好きなのと、孤立するのは全然違う。いじめを経験されてきた私にとって、全員に背を向けられる怖さは、人一倍わかってるのだ。

だから、素の自分を、誰かに認めてもらいたいのだ。

むかし、「われ観測す。ゆえに宇宙あり。」という、『人間原理』という哲学を聞いたことがある。

これは、人間が宇宙を観測できたからこそ、宇宙が存在するという主張だ。

この話を万物に当てはめると、観測されないものは最初から存在しないということになる。

私だってそう。認識されなければ、存在してないのと同義。

ぼっち・ざ・ろっくのセリフを借りれば、「個性捨てたら死んでるのと一緒」なんだ。

だから、私はエッセイで自己表現をし続ける。

人々は、いつか存在を忘れる。自分が昔聞き込んでいた歌だって、いつの間にか聞かなくなり、「懐かしい歌」になってしまっている。

そんなのはわかっているけど、私は今を表現し続けたい。

いくら陰キャであろうと、誰かに自分の個性を認識してもらうために。

猫を被った私の肉球がふんわりと、でも着実にキーボードを押して、きっとこれからも文字は綴られ続ける。

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