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うろこ雲を纏って

この作品はPrologueに投稿したものの再掲です。

この部屋にはタカシと私の思い出が詰まっている。海に行って拾った貝殻、小樽で作ったオルゴール、青森のねぶたの前で撮った写真、島根で作った勾玉のネックレス。
私はテレビ台に並んだそれをぼんやり見つめ、右腕のジクジクとした痛みを逃す。カーペットの上に横たわって、新しく刻まれた丸い火傷の跡を眺めた。

以前タカシに言われるがままに、足首へ付き合った記念日と、天使の羽のタトゥーを彫った。
「自由とか、勇気って意味があるんすよ」
彫り師の男性に言われたのを思い出す。
骨に伝わる鈍い音が痛くて、脳みそが震えて、眼球の奥が痺れた。心地よかった。

羽を彫りたいと思ったのは直感だったけれど、もしかしたら深層心理だったのかもしれない。そんな過去を回想しながら腕を撫でる。もう何個目だ。
タトゥーを彫る方が、こんな火傷より痛くなかったよ。


タカシはコンビニから帰ってくるなり、倒れ込んでいる私を抱きしめた。
「私が悪いから、ごめんなさい」
「謝らないで、俺、ユリが好きなだけなんだよ」
今日は、私がスマホゲームに夢中になってタカシの話を少し無視してしまった。怒鳴って殴って蹴飛ばして、私の腕にタバコを押し付けて彼はコンビニに行った。
帰ってきたら私の好きなシュークリームと、タバコの箱。
クルクルとタバコのビニールをとって、タカシは箱をパカ、と開けた。メンソールの球をカチリとつぶす。そのまま火をつけて大きくひと吸い。私もひと口もらう。仲直りの儀式だ。
喉に焼けつくような苦味も、肺に広がる圧迫感も、脳に染みていく毒も、全てが愛に満ちていた。


「外、うろこ雲やばいっすよ」
休憩室に入ってくるなり、遠藤くんは私に言った。重たそうなリュックを下ろし、ライダースジャケットを脱ぐ。
「今日はどこ走ったの」
「海っす」
「へえ」
黒いフルフェイスのヘルメットをロッカーの上に置きながら、遠藤くんは笑った。
「ユリさんも、一度知ったらハマりますよ」
「バイクに?」
「バイクが見せてくれる景色に」
ふうん、と呟く。
「あの」
遠藤くんがこちらを向く。
「ユリさん、また怪我したんすか」
彼はまっすぐこちらを見つめて言う。ふと手元を見ると、私は長袖を肘までまくったままだった。仕事中はさすがに無数の根性焼きの跡を見せるわけにはいかなくて隠している。
「これは、私のせいだから」
「そんなわけないです」
どくん、と鼓動が鳴った。カチリと時計の針が動く。
「そんなの、傷つけていい理由にはなりません」
まっすぐ真実を伝えてくる遠藤くんが眩しくて、暖かすぎて、憎らしくて。なんとか頷くことしかできなかった。
その日の帰り道に見たうろこ雲は私の腕みたいに丸が連なっていて、かわいそうだなと思った。かわいそう。どうせ崩れちゃうのにかわいそう。
その日の夜、ひとつ、ふたつ、みっつと丸が増えた。前の丸に新しい丸が重なって、歪になった。崩れたうろこ雲みたいだ。私の腕は、背中は、足は、顔は──。


「逃げましょう」
シフトの上がり時間が一緒だった私に、遠藤くんは突然呟いた。
「逃げなきゃ、僕もう耐えられません」
遠藤くんは拳を力いっぱい握りしめていた。
私はロッカーの横の壁にかけられた四角い鏡を見る。中に写った自分は虚な顔をしている。眼帯でも隠し切れないほど右頬から上の内出血が広がっていた。唇の横は裂けて、いつしか貼っていた絆創膏にも血が滲んでいる。腕に増えたうろこ雲を左手で撫でる。左手の愛の塊たちも、そっと目を細めて眺めた。
「そんなボロボロになってまで、そいつの横にいる理由はなんですか」
遠藤くんは私の目をまっすぐ見て言った。わからない。もう私には、わからない。
彼は私にヘルメットを被せ、バイクの後ろに乗せる。そしてエンジンがかかり、あっという間に知らない道路までやってきた。ここまで来れば、誰も私たちのことを知らない。私は遠藤くんの腰をぎゅっと掴んだ。あたたかい、生きている。
「どうして」
「……好きだからです、ユリさんが」
表情は見えない。風の音がうるさい。それでも確かに遠藤くんはそう言った。
「もう、自分を傷つける恋はやめてください」
少し声が震えていた。私のうろこみたいな腕を見て、彼はいつも悲しみを感じていたのだろうか。他人の腕に怒りや憎しみを感じて震えていたのだろうか。
気づいたら遠藤くんの背中に折りたたみナイフを突き刺していた。痛みに悶えながらなんとか道路脇にバイクを停める。遠藤くんの苦痛に満ちた表情をうっすらと見て、腰から手を離した。
「タカシの悪口言わないで」
遠藤くんの顔が絵に描いたように苦痛で歪んでいて、思わず笑いそうになった。この腕は悲しみの集合体ではない。私が愛されてる証。それを知らずに偉そうなことを言うな、タカシを貶したことを訂正しろ。

少しだけ、足首が疼いた。

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