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お別れまであと五秒

この作品はPrologueの再掲です。

いつからだろう、彼が私を見てくれなくなったのは。気のせいかもしれない。もしかしたら見つめられているのかもしれない。でも、昔に比べて明らかに触れられる回数は減った。今では腕を伸ばしても、なんの反応も返ってこない。私に無関心なのだ。

「あ、この歌手懐かしいね。子供の頃好きだったなあ」

車のスピーカーから流れてくる曲を聴いて、わざと楽しそうに振る舞う。せっかくのドライブなのに、私のせいで険悪になってしまうのは良くない。彼は今そこまで怒っているわけではなさそうだし、心なしか笑っている気がするし。

「よく歌ったなあ。この前もね、友達とカラオケで歌った」

返事がないのは分かっていた。それでも寂しさを堪えて話を続ける。もう返事がないことにも慣れた。

最初は私のせいだと自分を責めた。しかし時間が経つにつれて馬鹿馬鹿しくなってきた。私、何も悪いことしてない。必死になる意味、もうない気がするって。何をしても全て空回りなんだもん。

「そうだ、もう充電ないんだけどね。この曲覚えてる?」

スマホを開いて、その曲を選択した。オフラインで聴けるのって、結構便利なんだな。

「付き合いたての頃によく聞いたよね。デュエットしようぜなんて、練習したの覚えてない?私まだハモれるよ」

ふふ、と口角を上げて見せる。反応は、やっぱりない。

スマホを胸に抱いて、助手席で毛布を被った。寒い。震えが止まらない。

「起きてよ」

とうの昔に冷たくなった、運転席の彼によしかかってみる。ねえ、もう二度と抱きしめてくれないの?
私もあなたと一緒に死ねたらこんな寂しい思いしなかったのにな。ひどいよ。

つい何時間か前、私たちは車で雪崩に巻き込まれた。

後部座席は雪の塊によって一瞬で存在しなくなった。顔を上げると、窓の外は見渡す限り真っ白。いや、真っ暗と言った方が正しいだろう。白いはずなのに、ひたすらに暗い。

雪の壁に囲まれて、少しもドアが開けられなかった。のしかかる雪の重みで時折、ぎし、と車が音を立てる。そういえば天井、こんなに低かったっけ。

気づいた時にはもう雪の中だった。外の状況がわからない。電波はほとんどない。助けも呼べない。パニックになりそうなとき、彼はつぶやいた。「大丈夫、落ち着いて」と。

そうやって最初は手を握ってくれていたのに、半分潰れた運転席はもう何も語らない。ただ左手の指輪が、私を見つめている。いつしか彼は、眠るように死んでいたのだ。

それから何時間も、ずっと私は、もう返事をしてくれない彼の横で絶望と隣り合わせだ。幸い酸素は届いているようで、酸欠にはならなかった。ただジワジワと、体温だけが奪われていく。かまくらのなかは暖かいのよと昔お母さんが言っていた。でもねお母さん、限界があるみたい。

彼の頭からは血がポタポタと流れていたのだが、もう遠い昔のように感じる。いいや、寝ているだけよ、大丈夫と言い聞かせてみる。

目を瞑った。寒さで限界だった。気づけば震えが止まっている。もう何も考えられない、きっと終わりが近づいている。

あれだけ死にたくないと願ったのに、あなたが死んでからずっとこの瞬間を待っていたみたい。私も早く、この苦しみから解放されたい。おやすみなさい、さよなら。

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