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全てが無である父の記憶

私の父は、全てが無だった。

朝6時 に起き、朝8時に親戚の経営する会社に出勤し、車で配送業務をし、夜5時には終えて、家に帰ってシャワーを浴びたらびっくりするほど大量の白米を食べて夜9時には就寝する。
休日はパチンコでお金を溶かすか、近所の会員制ジムで筋トレをするか、ひたすら寝る。いつもニコニコして愛想が良いので周囲からの評判は悪くない。

父は普通体型だったが、極端な早食い大食いだった。今で言う食い尽くし系というヤツだ。大皿でおかずが出ると、一瞬で食い尽くす。好物が一切れしか取れなかった私と弟が泣いても、キョトンとしている。我が家の食事からいつの間にか大皿は無くなった。

子供の時の記憶がある。家族で行ったアスレチック。水上を渡るアトラクションで、調子に乗った父は足を踏み外して盛大に水に落ちた。弟は大笑いしてこの出来事を絵日記に書き、母は「子供じゃないんだから!ヘラヘラして!」と怒った。私は「お父さんだって、子供に戻ってはしゃいだって良いじゃない。お母さんは厳しいな」と思った。今なら母の気持ちがわかる。たまには親の責務を忘れてはしゃいだっていい。そう、たまになら。

私は25才まで、実家で過ごした。高校は1時間超、大学は2時間かけて通っていた。家にお金が無い中、無理を言って進学したので、そのくらいは当然だった。

変な話だが、一緒に住んでいたにも関わらず、父は私の進学先も就職先も知らなかった。まぁ聞かれなかったからと教えなかった私もアレだが。
私が小学校時代にいじめに遭って毎日泣いていたことも、中学時代に完治不可能な難病と診断されて厳しい食事制限が入っていたことも、もちろん知らなかっただろう。

もっと変な話だが、それでも父の中では大事な娘らしい。たまに父の知り合いに会うと、「美人で賢い娘だと嬉しそうに自慢してました」と言われ、私は困惑を隠せなかった。その頃は流石に、普通の父親ならもう少し子供に興味を持つものだと知っていた。

親戚の会社は徐々に経営が悪化した。父の給料も徐々に低下し、私が大学を卒業する頃、ついには月給ゼロとなった。

でも恐ろしいことに、父は今までの生活を継続した。

朝8時に親戚の経営する会社に出勤し、車で配送業務をし、夜5時には終えて、家に帰ってシャワーを浴びたらびっくりするほど大量の白米を食べて夜9時には就寝する。
休日はパチンコでお金を溶かすか、近所の会員制ジムで筋トレをするか、ひたすら寝る。いつもニコニコして愛想が良いので周囲からの評判は悪くない。

私が25の時、ついに母が三行半を突きつけた。直接の原因は、借金があるのでこの家を売却した、月末には引き渡して欲しいと、親戚から告げられたことだった。
それまで母は一人で家事をし、二人の子供を育て、同居祖父母の介護をし、パートを3つ掛け持ち、ヒステリックに叫んでご近所から鬼嫁の名を欲しいままにしていた。
父は相変わらずキョトンとしていた。

家を出る直前、私は家族のアルバムを眺めた。美人の妻。優秀な娘と息子。立派な家。自分が将来継ぐ会社。この人は、世の中の人が欲しいと思うモノを何もせずとも手に入れて、何もせぬまま失ったんだ。

27の時、父が死んだと死んだと親戚から連絡が来た。遺産放棄のため、まずは行政書士のところに行った。「お父様の資産は?」と聞かれ、私は言葉に詰まった。行政書士からは「現金は?車は?土地は?借金は?」と重ねて聞かれたが、どれも答えられなかった。興味がないという意味では似たモノ父子だったのかもしれない。

後日、手続きが終わり、私は泣いた。安堵の涙だった。いつか父に人生を狂わされるのではとの恐怖からやっと解放され、私は幸せになって良いんだと生まれて初めて思った。

先日、フェイスアップというアプリを初めて使ってみた。私の写真を読み込ませ、男性化のボタンを押すと、久しぶりに見る父の顔になった。忘れていたが、私は父親似なのだ。私は少し微笑んだ。

そう、私は別に、父を嫌いではないのだ。

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