衣笠祥雄はなぜ監督にならなかったのか?
衣笠祥雄氏が江夏豊氏と強い友情で結ばれていたことはよく知られている。
現役時代、チームメイトだったときは「女房より長い時間いっしょにいた」というほどだった。
プロ野球選手は遠征で家庭を離れる時間が長い。したがってそんな関係は稀というわけではない。
しかし、江夏さんが日ハムにトレードになってチームを去ると衣笠さんが「ユタカがおらん!」と号泣していたと言われるほど、ふたりの友情は深かった。
このふたりの絆を“シーズン記録”にたとえると、通算記録ではやはりトレーナーの福永富雄氏、彼がもっとも衣笠さんと「いっしょにいる時間が長かった」ひとになるだろう。
毎日、試合前には練習相手をつとめ、それが済めば1時間のマッサージ。さらに試合後にもマッサージをして、夜の酒をともにすることもしばしばだった。
福永さんはからだのケアをしていたから、衣笠さんの性格も熟知していたし、考え方も理解していた。
たぶん衣笠さんのことを、もっともよく知っていたのは、奥さんを除けば福永さんということになるだろう。
福永さんは以前、衣笠祥雄像をこのように語っていた。
サチは不思議な人間だ。私生活においては、音楽、絵画、陶器を愛し、ふとしたことに感動する。典型的な感性の人。流行の類別を当てはめるなら“アナログ型”である。ところが、こと野球に関しては、極端な“デジタル型”に一変する。
つまり、徹底してバッティングを理論でとらえようとするのだ。世間で言われる通りサチはバッティングに関しては、人一倍悩み抜いてきた。しかし、その悩みはあくまで理屈の部分の悩みであって、感性の部分でウジウジと悩む“アナログ型”のものとはまったく性格が違う。
(中略)
感情で悩むタイプの人間は、同じケガでも大きくなりやすいし、治りも遅くなりがちだ。しかし、サチは本人もおそらく意識していない部分で、打撃理論追求に対する悩みを自分から切り離すことができた。
この「切り替え」ぶりを、つぶさに観察できたのは福永さんならではだろう。
そして彼は、こうつづける。
チームの中には、野球と人間関係がごちゃまぜになってしまうケースがよくある。その点サチはすっきりしていた。野球は野球。人のことをとやかくいわないし、他人のことを気にしない。その姿勢のおかげで、彼の周囲には人間関係のわずらわしさがつきまとうこともなかった。もし、彼が、野球に対しても私生活そのままの“アナログ型”だったら、とてもここまでもたなかったと思う。(デイリースポーツ 1987.06.12)
20年あまりにわたってプロ野球という厳しい勝負の世界で苦楽をともにして来た人間にしか語れない人物評というべきだろう。
この文章をあらためて読んで気づいたことがあった。かつて衣笠さん本人が語った、「なぜ監督にならなかったか」の理由がここに書かれてあったのだ。
「サチは他人のことをとやかく言わないし、他人のことを気にしない。だから人間関係のわずらわしさがつきまとうことがなかった。」
つまり衣笠さんは、好んでそのようにしていたのだった。野球と人間関係をごちゃごちゃにしたくなかった。
そんな衣笠さんが一度、監督を断ったことがあった。「人間関係の煩わしさに引っ張り回されるのがいやだったから」と。
それが正式なオファーだったのか、内々の打診だったのかは今ではわからない。しかしはっきりと、衣笠さんは「断った」といった。
そのあとに続けて「何事もタイミングだから」と付け加えたように、その時の条件に何か納得できないことがあったのかもしれない。
監督になるために、つきまとうことになる人間関係…。
どこそこの誰彼に挨拶に行けだの、あの人に筋を通せだのが煩わしかったこともあったようだ。
また同じベンチをあずかるコーチ陣にしても、衣笠さんの思いを反映させることが難しかったであろうことは、これまでのカープのコーチ人事をふり返ってみるまでもなく容易に想像できる。
球団を私物化し“既得権益”を守ろうとするフロントの一部と、野球の魅力を広く訴えてきた衣笠さんとは水と油。もともと合うはずもなく、人事権を持つフロントにすれば、『衣笠監督誕生』にある種の嫌悪感ばかりか、恐怖心すら抱いていたのかもしれない。