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ノホホンと大和を愛でる?

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大和やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ あめ香具かぐ山 登り立ち くにをすれば 国原くにはらは けむり立ち立つ 海原うみはらは かまめ立ち立つ うまし国そ 蜻蛉あきづ島 大和の国は

巻1の2 
高市岡本宮たけちのおかもとのみや御宇あめのしたしらしめしし天皇代すめらみことのみよ息長足日おきながたらしひ廣額ひろぬかの天皇すめらみこと舒明じょめい天皇)]

  天皇の香具山に登りて望国したまひし時の御製ぎょせい

一般訳
大和には多くの山があるが、神々が降り立つ香具山に登り立って国見をすると、国原に炊煙がしきりに立ち登り、海原には鴎がさかんに飛び交っている。ああ、大和の国は満ち足りたよい国だ。

解釈
「国見」というのは、高いところに登って見渡す眼下の土地をほめ、その繁栄を祝福すること。さらにいえば、「見る」という呪術でその土地の支配を実現する儀式ともいえるでしょう。

歌の冒頭で、わざわざ大和には多くの山がある、と他をひきあいにだしているのは、よそにも国見=土地の支配という構図が成り立っていることを示している。
それを受けて、神々が寄り集う香具山で国見をしたじぶんこそが大和を支配するのにふさわしいのだ、と舒明天皇は宣言している。有力な皇位継承者はほかにもいたが、われこそが正当な皇位継承者であり、じぶんが統治するからこそ、大和は穏やかな繁栄を謳歌しているのだ。そう歌っていると解釈できます。

推古天皇が崩御されたのち、田村皇子が舒明天皇として即位するまで、当時はお約束だった皇位継承あらそいがありました。そのなかで殺し殺されの悲劇があった。その鎮魂がなっての泰平ということでしょう。

蜻蛉あきづ島」は「ヤマト」の枕詞まくらことば。神武天皇が国見をして「蜻蛉(トンボ)の臀呫となめ(交尾)の如くにあるかな」といったことから「あきしま」の国号が生まれたともいわれています。
トンボが秋の収穫のころ、交尾して輪を描きながら稲穂の上を群れ飛んでいる情景。そこにのどかな多産のイメージに重ねて五穀豊穣を見たということでしょうか。
その蜻蛉島を讃えることで、みずからの皇位継承が神武の時代からつづく皇統に繋がったと宣言し、皇位継承をみずから寿いだ歌とも解釈できます。

そう理解すると「煙り立ち立つ」はさておき、鴎が「立ち立つ」と表現していることに、あらためてある意図を思わないわけにはいきません。
「煙が立ち立つ」は、あちらこちらにかまどから煙があがっている情景ですが、同時に騒乱の跡の残影も浮かんできます。すると「鴎が立ち立つ」も皇位継承をめぐって、何人もの候補擁立の動きがあったことを想起させる。つまり〝国原〟は地域的な表現として、〝海原〟は人物的なそれとして皇位継承争いをシンボリックに表現しているとも考えられます。

とすれば、この歌の世界は一気に拡がります。ただ大和の国は麗しい国だ、とノホホンと詠っているのではない。かつては、皇位継承をめぐってひどい争いがあったが、いまはそれも治って大和は平穏だと詠嘆している。災いが過ぎたのちの安寧を詠っている。悲劇に上書きされてのどかな情景が表現された重層構造になっていることで、大和の国の麗しさがひときわ強調されているのです。

直感訳
大和に三山があるように、皇位を継承する候補も少なくなかった。しかし神々が寄り集う香具山に登って国見をしたわれこそが、この大和を治めるにふさわしいのだ。
かつては陸に海に諍いがあったが、いまはそれも治った。この国には竃の煙がしきりに立ち登り、海に群れる魚をねらうって鴎がさかんに飛び交っている。
ああ、神武天皇からつづく大和の国は、なんと麗しいよい国なのだ。

〈禁無断転載〉

 

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