「ピカッ」問題、あるいは広島におけるヒロシマについて。

ピカッ中国新聞

昨夜は、読書の興奮さめやらぬまま床に入り、禁を破って就寝の枕元で「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」(Chim↑Pom・阿部謙一編/河出書房新社)を読みふけった。
読了までは、あと数十ページとなっていた。

そこまでは概略、Chim↑Pomが原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカッ」を描き、一部の被爆者や市民などから「不快だ」「不謹慎」だと非難され、謝罪するにいたった行為について、美術評論家やらアーチストやらが、それぞれの思いや考えを開陳し、彼らの行為を批判したり、未熟をいさめたり、あるいは擁護したり。そのいちいちが鋭いヒロシマ論でもあって、大いなる示唆を与えていただいたのだった。

そして巻末となって、いよいよChim↑Pomリーダーである卯城竜太氏によるまとめ、「Chim↑Pomのピカッ騒動記」だ。

そこまでの本編においても、各氏の論考にウロコは落ちつづけていて、歴史書、伝記、ノンフィクション、これまで目にした『ヒロシマ本』のなかでも、これほど刺激に満ちた本はなかった。その掉尾を飾るこのコラムには、またまた打ちのめされた。
正直、彼にはアートの世界にいてくれてよかったと、嫉妬しながら安堵したほどだった。まちがっても、文芸との境界は越えてくるなよ、と。(笑

とくに秀逸な文というわけではないが、なぜか染み入ってきた箇所があった。

「原爆ドームには幼稚園児達が遠足に訪れていて、赤い帽子と青い制服の子ども達が整列して歩いていた。飛行機雲が白く美しく出るようにと、一ヶ月をかけて待ち望んだ青空は完璧な晴天で、ドームの前を流れる元安川はそれを青く映していた。」

画像2

彼らは「ピカッ」が美しく映るように、と祝意のような青い空が原爆ドームの上空に拡がるのをひと月も待ち望んでいたのだった。
この文章を目にしたとき、待ちぼうけをくわされた孤児のようなChim↑Pomのメンバーたちに、愛おしさすら覚えていた。

彼らがドームの上空に青い空を待ち望んでいたのが2008年。
その63年前に、原爆ドームとならない前の産業奨励館を見おろす空から原子爆弾「ちいさな子」を投げ落としたのは、広島の破壊とひとびとの殺戮の記録が精確に測れるようにと雲がはれるのを何日か待って、広島か小倉か長崎か、どこかに落とせればオッケーだ、とばかりに未明のテニアン島をB-29で飛び立った“彼ら”だった。

この両者の「待つ」ことの意味の落差!
天を寿ぐための時間と、破壊と殺戮のための時間。
このちがいを知るだけでも、チンポムの営為はまた異なった景色としてぼくたちに記憶されるだろう。

このコラムのなかには、Chim↑Pomが広島現代美術館に提出した企画提案書が挿入されている。

「ヒロシマの空をピカッとさせる」と「リアル千羽鶴」
このふたつの企画を語る彼らの言葉は新鮮だ。
なかでも「ピカッ」のほうは胸を打つ。

広島現代美術館が批判されるリスクを承知で「ピカッ」にノッた、あるいは賭けたのだとすれば、その気持ちがわかるようだ。
結果的にchim↑pomの「ピカッ」の企画は、批判の嵐に吹き飛ばされたかたちになったが、もし「非難」から「理解」にベクトルがちょいと振れていれば、批判されたと同量の評価を得ていたかもしれないと、つくづく残念に思う。
リトルボーイの胴内に仕込まれたウラン235のように、「ピカッ」の企画が内包していたのはとてつもない可能性だったのかもしれない。

ピカッ騒動記から、部分を抜粋してみたい。

(前略)「原子爆弾」は政治家や知識人たちの言葉だ。人体実験のように科学的なこの言葉は、一方には勝利の象徴、他方には敗北の烙印だった。一方、「ピカドン」は庶民の言葉だ。あの瞬間の「何事か」を感覚のまま光と音であらわしたこの言葉には、痛みや恐怖、死、衝撃、生き延びようとする身体などの体験が生々しく凝縮されている。(後略)

そう「ピカッ」は庶民の言葉、落とされた側の言葉だ。
それを意識してアートにしたchim↑pom。

いうまでもなく彼らは「ピカドン」を投下した側ではない。原子爆弾を投下された側に立って、ヒバクシャにかわって「ピカッ」を、あの日あの場所に投げ返したのだ。
「敗北の烙印」を「希望のサイン」にすり替えるために…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?