相反するコミュニケーション

自分は今までずっと対人間コミュニケーションにおいて、人は「論理や原理や証拠etc」といった理屈に基づいて話をしていると思っていた。



しかし、SNSかなにかで「定型発達者はコミュニケーションで互いの感情を共有、やり取りをしている」と記述されているのを目にする機会があり、とても驚いた。


発達障害の診断を受ける前の自分はとにかく「正しい/間違っている」に強く固執し、納得できない=正しいと思えない ことに対しては相手が上司であろうと経営者であろうとはっきりと「それは正しいとは思えない」と言っていた。


その際には自分の性格や衝動性・攻撃性の影響もあったのかもしれないが、強い口調になることもままあったようで、よく「君は感情的になりすぎる」と言われていた。

(知らなかった新しい情報や前提条件の提示等で納得ができれば簡単に取り下げて謝罪・従属することは出来ていた。)


また、話の組み立て方においても他者の気持ちや都合、社会的なあれこれ(立場だの関係性だのと表現されるアレ)よりも起こったことやリスク回避、理屈理論や筋道を優先しすぎるあまりか「君の言うことはいつも正論だね」と諭されることもよくあった。(諭されていたと気付いたのは心理士さんの指摘を受けてからで、それまでは褒められていると思っていた。)


自分としては「筋道を立てて考えた結果、その答えには至らないのではないか」ということを(比較的に攻撃的な文言を採用していたことは反省するとして)主張していただけなのに。


一方で感情的にならず理性的にコミュニケーションをとることが求められ、他方では感情の共有や受け渡しを要求される。


そのような感じ方をもたらした上記のSNSの言葉は、自分にとってとても大きな混乱をもたらし、人との対話に大きな影響を与えつつある。


おそらくこれも、「理屈・感情」の二極化思考ではなく、「理屈〜感情」間のグラデーションとして捉えるべき問題なのだろう。


理性的理屈的に感情の受け渡しを行い、共有(そもそも自分には『共有』という概念自体がまだあまり掴めてはいないのだが)することが、おそらく対人間コミュニケーションにおける最適解の一つなのであろうことは、自分にもある程度推測することは出来る。


しかしそんな高度なことを、マジョリティー勢はやっていたのか?そして今もやっているのか?と思うと暗澹たる気持ちになる。


「え?なんなの?みんな超人かなにかなの?」と。





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