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わたしが滅亡しかけた夏夜




「パピコ、パピコの、ソーダ!」



幼稚園からかえってきたばかりの息子達は、したたる甘い汁をおしりふきでおさえてる。


Eテレでは知らない子たちが、ダンボールでかき氷屋さんになろうとしてる。インサートされたお店の映像では、透明なひかりの跳ねる天然氷のかたまりに、刃があてられ、ざり、ざり、と削られてる。



ざりざりざりざりざりざりざりざり






夏に特別な思い出がない。
それなのに、忘れられない夏がある。


あれは、地味すぎる大学三年の夏。
なのに10年以上たってもまだ記憶のセンターに居座っている夏。
氷にとがれた刃をあてるように、命がうすく削られていく数ヶ月だった。





2006年、ワールドカップが席巻していた最中に失恋した。
フラれた翌日、留学生とルームシェアする寮に住んでいた私は、寮生たちに連いて初めてスポーツバーに行った。店に向かう途中に買った巻誠一郎のユニフォームを着て、客が歓声をあげるたび真似して叫んだ。誰かが笑ったら大きく笑った。



騒がしく過ごしても、心はセミの抜け殻くらいに脆い。失恋して3日目でやっと食べられたのは心配した友達がくれたヨーグルトだけで、それ以外口に入らずみるみる痩せていった。



それからも毎日、友人を捕まえては復縁の可能性を何時間も相談し、居酒屋でのバイトも早めに行き店長に心境を吐露し、寮ではとなりの部屋まで押しかけて朝方まで嘆いた。
眠りに落ちる直前まで、ずっとしゃべってた。
現実から逃れるように私は、誰かと一緒に居続けた。





そんなふうに過ごし3週間経ったころ。久々に実家に帰った。
あいかわらず食欲はなく、食卓に並んだ、イカや大根の入った煮物を見るともなしに眺めていたとき、とつぜん、背後から身体ごと呑まれるような大きな何かが迫ってくる気配がした。肩甲骨から首の骨、頭蓋骨まで、そして心の隅々までもが未曾有のざわざわに包まれパニックになった。
このままだと自分が何をしでかすかわからないとおののき、千円札数枚とiPod miniだけをパーカーのポケットに入れ「ちょっとでかける」と外に飛び出していた。



古い長屋が立ちならぶ我が家の周りはしんと暗くて、とにかく「街」に向かおうと騒がしそうな方を目指した。

薄いスニーカーでコンクリートの凹凸を踏む。





火照った霧のような、あの夜の空気はいまだに全皮膚がおぼえてるのだけど……
私のまわりを透明な5000人くらいの軍団がぎゅうぎゅうに囲んでいる。その、ムシムシと生温かい気配を振り払うように進んだ。赤信号があれば青信号のほうに。一度でも止まったら二度と動けない気がした。
そのまま、3時間も歩き続けた。




深夜に近づくころ。名古屋城も繁華街もとっくに通り抜け、国道沿いの住宅街を闊歩していた。
ふだんあまり歩かないぶん、頰もほてり脳が軽く痺れるように疲労しはじめた頃、目の前に突然、朱色が灯る、コンクリート打ちっ放しの小さな店が現れた。そして私はそこにそのまま、吸い込まれるように入ってしまった。




「ああ、入ってしまったな」と思った。
なぜならそこがバーだったからだ。




お酒に弱いことがコンプレックスだった。アルコールとは強い人だけが楽しむもので、ビール半分で首まで真っ赤になる自分はバーとは無縁だった。
日本酒を水のように飲み「強いね〜」と言われる子のとなりで氷水を何度も注文するのがいやで、飲み会中トイレに駆け込んで、蛇口の水を直接がぶ飲みしたこともある。




短い「いらっしゃいませ」に顎をわずかに引いて、見たことのない建築雑誌やぶあつい写真集の表紙を横目に、あまく煙たい匂いの空間へと足を進める。いちばん奥のソファ席にすわった途端、からだじゅうから一気に吹き出て顎までたれる汗を、おしぼりで抑えながら小さなメニューを覗く。



濃い髭に、長髪を結った店員さんがさりげなく、林檎の入ったお酒を勧めてくれたのだけど、こなれたふうを装いたく「ソルティードッグ」を注文した。「グラスについたお塩をなめながら飲んでください」という説明にたじろぎつつ、まず一口、くちにした。




ひとりでお酒を飲んだのはその日がはじめてだった。
お酒って無理やり誰かに心を開くためのアイテムだと思ってた。だけどなんというか……その日は逆だった。一口飲むと、自分が閉じた。もう一口飲むと、世界が霞んだ。五口飲む頃には、世界と自分が断絶されていた。寂しさはなかった。





店を出たら、まったく違う夜だった。


夜のなか放り出された私は確実にひとりきりで、違う惑星に降りたようだった。つよい風のなか耳にイヤホンをぶちこみ音量をあげる。
借りてきたばかりの、スピッツのアルバム(シングルコレクション2枚組)が流れる。一曲目『ヒバリの心』のイントロが流れて、早足で歩きだす。あたりのノイズが即ミュートになる。


まわりにはまばらに人も車も通っているのに、その瞬間、アルコールと、音楽と、夏のぶあつい空気に包まれて私は、体感したことのないような、完全な孤独を感じていた。
人類初だ。こんな、こんなにも完全な孤独、この時代のこの瞬間のこの私以外に誰も得たことがないものだと、おでこまで鳥肌をたてながら、はっきり確信する。



マグマだ 竜巻だ 地震だ
叫び走ってどうか逃げたい でもついてくる
わたしを滅亡させてしまえる巨大なうごめきは
他でもない私の内側で暴れようとしている
グツグツグツと胸の底で沸き立って
ゾウゾウと脳が思考を旋回させて
ザワンと脊髄が全身を震わす

その中心にあるのは後悔 懺悔 絶望
そして行き場を失った愛しさ
苦しい苦しい息がしたい
なにかが壊れそうで

わたしは




ふたりだけの記憶がつぎつぎ浮かんだ。毎日毎日毎日毎日ふれた表情と体、真っ暗な波音、指のつめたさ、助手席から見飽きてた景色、飽きずに呼び名をくりかえす低音、煙たさ、カサカサ喋るシーツ……1000倍速で夜に浮かんだ。それから消えた。



ぐんぐん進む景色のなか、突然噴きでた思いが360度反響して、おどろいた私は反射的に眼球に力をいれ、地面を蹴るスピードをあげる。背中まで汗に濡れながら、もうほとんど走ってた。





アルコールは感情にエコーをかける。
音楽が、思い出を上映してしまう。



わたしは、悲しかったのだ。




苦しかった。会いたかった。別れたくなかった。許してほしかった。さらにそのきもちを完全に拒否されたことに打ちのめされていた。それまで生きてきたなかで比べ物にならないくらいに深い絶望に突き落とされてた。感情がつぎからつぎにこぼれでる。


皮膚をめくったら精神は血まみれだったと思う。それを直視できなかった。直視してしまったら、心が形を失って蘇生できない気がして、だから怖くてひとりになれなかったんだ。



夏の夜風は、外からみえないテントを張るように「今泣いても大丈夫だよ」と肩を抱く。


そのとき『ホタル』が流れた。はじめてちゃんと聞いた。経口補水液のように、体内に浸透してくるその旋律が、ぴんっと張りつめていた糸を溶かす。サビになったとき、全筋肉が脱力し、ううううあああああと大声をだして泣いていた。なにも恥ずかしくなかった。


その夜わたしは孤独だった。だけど怖くはなかった。自分とふたりきりだったのだ。
羊水の中ってこんな感じなのかな。孤独はその夜、癒しだった。
そのまま3時間くらいスピッツをシャッフルしながら歩き、朝がた帰宅した。





その夜からわたしは「ひとりになる必要がある」と思うたび(つまり毎夜)コンビニで一本だけシードルを買って、音楽をながした寮の自室で、半分だけ飲んで、残りは冷蔵庫にいれた。


大学で彼とすれ違うたび心が破裂しそうになったけど、毎夜ひとりになって、今自分がどんな気持ちなのか、どうしたいのか、いつも確認した。「悲しい」だけじゃない自分のいろんな気持ちがわかった。復縁を望まず失恋を受け入れ続けることを選んだ。


そうしてわたしはその夏、ゆっくり、ゆっくり、自分を取り戻していった。







ざりざりざりざりざりざりざりざり



「ママ、こぼしたーーーーー」
次男が麦茶をぶちまけている。我に返った私は「はー?」とタオルでそれをおさえる。
長男がベランダでウルトラマンになってる。



年中パピコを食べて、
年中布団をはだけさせ、
年中プールが好きな息子たちとの、
季節がなくなったような騒がしい生活のなか、
地味で一人ぼっちなあの夏を思う。



こぼれたお茶のことなんてとっくに忘れた彼らは、
全裸になって、おちんちんをぶらぶらさせて、こしょぐりあってる。



このところは月1度くらいで友達と飲みに行くようにしてる。だけど。たまには夜、ひとりで飲んでみようかなあと思う。いまの自分とふたりきりで、もしくは、あの日の自分と乾杯するように。





夏に“思い出”がない私たちはこうして、あらゆる今を纏うように生きる。








Edit : Yoichi Nakajima



これは【キリンビール×note #あの夏に乾杯 」コンテスト 】のお手本作品として作ったものです。スイスイは審査員として参加しています。
コンテスト締め切りは8月31日(土) 23:59。みなさんの作品を、夏じゅう渇望しています。

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