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日刊オトナリさん

 まだスマートフォンの普及が低く、ストリーミングサービスもまだまだこれから普及していく、巣ごもり需要なんて言葉もなかった時代。
 店舗型のレンタルサービスでCDやVHS、DVDを借りにお店へ足繁く通っていた。歌詞カードのついていないCDはネットなどで歌詞を探してノートに書いていた。

 ある年、母と一緒に好んで見ていたロボットアニメのエンディングテーマの歌を歌いたいと母が言うので、アニメ版はノートに、フル版はネットの海から見つけて印刷して歌詞カードを渡した。それはそれは子供が喜ぶように、新しいものを手に入れてはしゃいでいるのが見て取れるほどに明るい声色で、「ありがとう。久々に歌ってみるわ」と受け取ってくれた。

 何度か練習していた歌も気づいた頃にはカラオケも、家で歌うこともなくなっていた。不思議に思っていた私は「家でくらい歌っても、鼻歌してもいいんよ」と言ったけれど、母は首を横に振り、なんとも情けなさそうな、はたまた恥ずかしいのか、それとも後ろめたいのか暗い顔で言ったのだ。

「お隣さんがね、歌うのも鼻歌もいい歳した大人がみっともないって言ったの」

  だから辞めたのよ。

 私も母も美声の部類ではないし、胸を張って歌が得意です!と言う人間ではない。けれど、けれどもね、私は理不尽だと心底思ったわけです。
 お隣さんは私の母を娘のように口うるさく指摘してくれます。ですが、実の娘さんと話せない欲求や口を挟みたい気持ちに我が家の母を巻き込まないでもらえないだろうか。

 我が家のカーテンの開閉や灯りの点いている時間、玄関の扉をジョウロで叩いて呼び出すのは如何なものだろうか。お隣さんの「口うるさい姑がいるようで悪いね」と笑いながら、体調が悪くて寝込む母や私のことを理解するつもりなど無いのに呼び出しては「今日はどこに行くんだ」「何時に帰るんだ」と、お隣さんには関係のない話をしつこく聞いてくる。話の終わりには「みっともない」だ、「早く病気を治して親孝行しなさい」「いい歳なんだから辞めなさい」と味のしないスルメイカを噛み続けるように繰り返すのだ。
 毎日のように家の外から見られているようなものだから、聞かれても答えないようにすれば、我が家側で大きな独り言を言いながら歩いたり、家に居ることに気づかれれば声をかけられたり……と。常に見られている感覚が付きまとっていた。

 だからだろうか、母は疲れたのだ。

 好きな歌をワンフレーズ歌いながら洗濯物を干す時も、お隣さんの目が、耳が、私達をエンターテイメントとして取り入れたい気持ちのせいなのか、好きな事を行うことはみっともなく、恥ずかしい事として言われてしまったのだろう。嬉々として口づさんでいた歌は消え、積み重なる出来事に精神的に滅入ってしまった。
 それからはお隣さんとの交流を控えるように私はさらに引きこもり、母も同じくして家の中でドラマを見るだけ。玄関から出る際は外に誰もいないか確認してから靴を履くようになった。さながらスキャンダルに怯える芸能人のようだ。

 そんな日刊お隣さんも数年を経て落ち着いて距離を取れるようになったけれど、先日、たまたま顔をあわせた際に聞いてしまったのだ。

「最近カーテン開けないのね」

 どっ……っと冷や汗が背中を滴る。瞼の裏にお隣さんの詮索が酷かった頃の記憶が駆け巡る。
 焦って入った部屋はお隣さんからは見えない角度。その窓だけは開いていて風でカーテンが揺れていた。未だに見続けているんだと感じる。カーテンも、鼻歌も、携帯電話がスマートフォンになっても変わらない。

 これから先も私たちはお隣さんのエンターテイメント。貴女の中の娯楽として今日も怯える。

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