ナターシャ

燃えるすみれ色に染まる廊下をたったひとりで歩いていました。
お祈りにむかうシスターの足取りを意識して、静かに静かに歩きました。
急ぎすぎても遅すぎてもいけません。
夕焼けが一番綺麗に校舎を染めあげる時間にそのドアをあけるのです。
すると階段下の掃除用具入れはひととき別の世界に繋がります。

「やあ、いらっしゃい。」

コーヒーと油絵の具の匂いでいっぱいの部屋の隅で、デデは今日も絵を描いていました。
もじゃもじゃの頭と髭にかこまれた顔は、いつも穏やかに笑っています。丸メガネをかけて絵の具で汚れたTシャツを着たデデは親戚のおじさんのようにも、どこか遠くの国の人のようにも見えました。年齢も、何歳なのかよくわかりません。

「こんにちは、デデ。調子はどう?」
「まあまあだよ。キミは?」
デデの調子はいつもまあまあです。
私はそれには応えず部屋の隅をぐるりと歩いて彼の隣に座りました。

デデに会うのはこれで何度目でしょうか。1番最初にここへ来たのは5年生になったばかりの頃でした。

コンクリートが剥き出しの床の真ん中には、地面から大きな壺が半分顔を出しています。
なんでもこの部屋を作っている時に遺跡がでてしまったのでそのままにしてあるそうで、この辺りではよくあるのだとデデは言いました。

白く粉をふいたその壺は、ちょうど私くらいの子供が膝をかかえてすっぽりと入れるほど大きなもので、部屋の半分近くを占領していました。
不便な部屋ですが、何千年も前の人が作ったものと一緒に暮らせるなら大したことではないのだそうです。
私にはそれがお葬式の時に使う棺のように見えました。怖くて気味が悪いけど、なかに入ってみたくなる不思議な壺でした。

「何か飲むかい?ミルクもあるよ。」
私は首を横に振りました。
こういう場所で出されたものを飲んだり食べたりしたらもどれなくなると、昔話で読んだことがあったからです。
それにデデが私にミルクをすすめるのは、挨拶のようなものでした。

デデはいつ絵を描いています。
今日彼の前にあるキャンバスには、黄色い花畑の前に立つ金髪の女の子が描かれています。
空色のワンピースを着てじっとこちらをみていますが、すこしも楽しそうではありませんでした。

「誰を描いているの?」
「ナターシャだよ。」
「恋人?」
「いいや。ナターシャは…そうだな。もう会えない人、会ってはいけない人、夢を見ることだけが許された人。」

そう語るデデのまなざしは優しく、とても幸せそうでした。
そして彼は私の頬をひと撫でして笑うのです。

「キミもいつかナターシャになるといい。」
「私はーーよ。」

なぜでしょう。
ここにくるといつも自分の名前がうまく言えません。頭の中では意識できているのに声が抜けてしまうのです。

「キミは何にでもなれる。ナターシャにもユーリにも、待雪草やナイチンゲール、夜空や春風にだって。でも、自分を失くしちゃいけない。」
「そんなの失くそうと思ったって失くせないよ。」

デデは首をよこに振りました。

「いいかい。自分っていうのは大勢の人と一緒にいると時々すり減っていってしまうんだ。人に合わせるといいこともあるし、減ってしまうこともある。」
「そうかな。」
「キミはまだ子供だからね。それで、ここに来れた。」
「じゃあ、自分を失くさないためにはどうしたらいいの?」

デデは私の手を取るとぎゅっと握りました。
それから私の目の中を覗き込むようにして言いました。

「好きなことを見つけるんだ。なんでもいい。自分が大好きだって思えることを一つでもいいから持っていれば大丈夫。」
「私の好きなもの?」
「そう。」

デデの好きなことは?と聞こうとしてやめました。
きっと彼はこの部屋に留まってナターシャを想っているのが好きなのだと思います。

でも私は12歳のちっぽけな子供で、来週には卒業してしまいます。
中学校に行って高校に行って、それから大学にも行くでしょう。
どんどん先へ進むのです。

きっともう、デデには会えません。
「ねぇデデ。私ね、学校のなかであなたに会えるこの時間が1番好きだったよ。」
「そう、それは良かった。」

ひんやりとカサカサしたデデの手をぎゅっと握りながら、私はぐるりと部屋を見回しました。そして、一度くらいあの壺のなかに入ってみれば良かったかなと思いました。

「ミルクを飲むかい?」
デデがもう一度そう聞くので、私は「もう行かなくちゃ。」と断りました

言いたいことはたくさんありました。
でも時間がありません。日が沈む前に戻らないといけないのです。

「さよなら、デデ。」

「さようなら。」

重たい木の扉を開けて外に出ました。
そこには掃除用具置き場になっている金属のドアがあるだけでした。
もう一度ドアを開けます。モップとバケツが置いてあるだけでした。

デデはもう会えない人になってしまいました。
でも悲しくはありません。一緒に過ごした時間も思い出も消えないからです。
私はこれから大好きなことをたくさん見つけようと思います。

いつかまたデデに会えることがあったら、その時はちゃんと自分の名前を教えてあげられるといいなと思いました。

すみれ色に燃えた夕焼けは太陽と一緒に西に消えてしまいました。
まもなく薄い羽衣のように夜が降りてきます。

夜空になれたらどんなに素敵で寂しいだろうと思いながら、家に帰りました。

#こんな学校あったらいいな

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