見出し画像

勉強好きとそうで無い人。


【非認知能力と勉強が好きか嫌いかの判断】

私が教える事に悩んだ時、師からいただいた言葉が心に響いたので引用します。

非認知能力は、絵本の読み聞かせや、絵本の読書によってかなり鍛えられます。
学ぶというのは、本来は無知の知にいたることで、自分がわからない、自分が無知であることに気づくこと。そのためには教養が必要です。けど、非認知能力が完成する7歳前後と自我が生まれる9歳前後の二つの時期逃すと、かなり知力と思考能力に差が出てしまいますよ。
学ぶことがわかってる子供は勉強が好きですが、大人になって勉強好きになる人は真から好きなのではなく、欲求の動機付けがあるからやれるだけで、学ぶ喜びは感じないという悲しい現実があったりします。
分かりやすく言うなら、大人になっても文学や哲学書を自然科学や人文社会系などの本を読む人と自己啓発本を読む人の違いです。文学や哲学書を読むときは、作者の意図や人物の考えを理解しようとした上で、共感したり反発したりします。これは非認知能力と認知能力の両方を使います。ところが自己啓発本は、お金がほしい、有名になりたい、自分らしく生きたいという欲望が動機となって読み始めますから、受け身になりやすい。基本作者の言いなりです。これはいわば思考停止状態で、情報だけうのみにします。勉強が好きな人は、理解できた喜びと出来ない苦しみがありますが、常に考えてる訳です。真に勉強好きでない方は、本を読んでるという行為に満足感を持ってしまいます。すごく勉強しているということに、達成感を感じてしまいます。本来、達成感を感じるべきは、何かを理解できたときもしくは知識が使えた時です。つまり、勉強好きな人は、自分が得た知識を話します。同じように話せる仲間、反論してくる人、同じレベルの人と議論ができます。また教養がある人は、自分の無知なこともわかりますから、自分より優れた師匠や先生もわかります。さらに探求を深めることができます。
ところが勉強する行為に満足している人は、知識、教養で議論することができません。この差は大きいです。思考と教養はツールです。このツールを持ってる人と持ってない人では実感できる世界が違います。
日本の学びの感覚は「サービス」。そう考えている人は学びを習得できないかも知れない。
多くの人は友達みたいな先生を望みますが、それでは先生とは言えないです。
先生の生き方、それは側が到底追いつくことの出来ない時間と経験値。かけた時間をお金で買うのが学びのスタンスです。
「ちゃんと教えてくれていない」と言うひとは努力の仕方を知らなくて、文句を言って去っていった人たちは脱落しただけ。
生徒が頑張らないと、先生の実力も落ちます。
例えがあって、山登りのチームに3人いる、一人は超一流、もう一人は一流、最後の一人は素人、さてこの山登りのチームの実力どれほどなのか。
答えは、遭難必死の素人レベル。
いくら先生が一流でも素人の生徒がいると、先生も素人になる。
先生のレベルを下げない為にも、先生が「もっと教えたい」と思わせる生徒が良い生徒で、学ぶセンスがあるということ。
ロシアのゲオルギイ・グルジエフという神秘家が、こんなことを言ってます。
「すべての人に誠実であるのは弱さであり、従属性、いやそれどころかヒステリーの現われである。」
日本のサービス化してしまった「学ぶこと」を鵜呑みにしてはいけない。そのような人は果たして、その道のプロや先生として生きているのでしょうか。
人は尊敬の上に人間関係が成り立つのでは?と常に考えます。
自分の無知を知り(恥じることではありません)、謙虚で努力家でいたいですね。

最後に
自己信頼が低いと勉強することが辛い、そのような考えが心理学であるようです。
皆さまはいかがでしょうか?

お読みくださりありがとうございます。
誰かに響くと幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?