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「太陽の王子ホルスの大冒険」やさしいこと、正しくあること

ヒルダという少女の、
悲しくも複雑な心理描写を
アニメーションによって完成させたことへの
功績の大きさは計り知れない。

行動と心、さらには表面と深層の心が
食いちがって揺れ動くヒルダの難解さを
表情やカメラワークによって
それは見事に描かれていた。

人間の感情の醜さに耐えられず、
拒絶し嘲笑する「悪魔」のヒルダを
私たちはどこまで理解できるのか、

製作側も観ている側も 
試しているようだった。

私が最も悲しかったのは、
ビリヤの結婚式の衣装をみて
ヒルダは刺繍もできない自分を恥じて
嘲笑う言葉だった。

「なにになるのそんな着物が。
火をつければ燃えてしまうわ」

ひどい言葉の影に、
ヒルダの強い不信感と無力感が
透けてみえて、
悪魔に村を焼かれたヒルダが
これまで失わざるを得なかった
さまざまなことに想いをはせた。

「どうしてみんなと一緒に暮らしちゃいけないの?刺繍をしたり花を編んだり、ビリヤのようなお嫁さんになったり」

「でも人間と戦う以外にヒルダの道はないもの」

良心のようなチロの言葉と、
悪心のようなトトの言葉に挟まれ
もがき苦しむヒルダ

楽しいことや嬉しいことから
遠ざかりたい感情もまた、
それが破壊され、消えていくことへの恐怖心と
同じことなのだろう。

ヒルダは繊細そうなやさしさを持ちながら、
人としての正しさというものが
すっかり抜け落ちていた。

やさしいことと正しくあることは
全く別のことで、
やさしさと不健全は両立しうるものであり、
そのふたつを持ってしまうと、
人ってこうなるんだと思った。

マウニをやさしく抱きしめる手で
ホルスに刃を向けるヒルダ。

ヒルダの健全さは
食いちぎられたように欠如していた。

人の集団の影にいて、
誰が人を操ろうと思っていて、
誰が疑いの心をもっていくのかを
森の子鹿のように見張っていて、

その事実に傷ついている、
そんな女の子だった。

「ヒルダの中のもうひとりのヒルダを
追い出すんだよ!
本当のヒルダがどんなに強いか
思い知らせてやるんだ!」


ホルスはヒルダの本当の言葉を
見極めている、と思った。 

ホルスと出会い、ひとりで歌を歌うヒルダを
村に誘った時、
「思いっきり歌を歌ってみたい」
と言ったヒルダの目の輝きを
信じているんだと。

それは私も同じだった。
ヒルダがいつ、苦しそうで、
いつ、幸せそうに笑って、
本当はなにを願っているのかを
私は探るように画面を見つめていた。

なおも興味深いのは、この作品の根底に
善意を信じる楽観的思考が
全くないことだ。
ホルスを叩き、ヒルダを叩き、
そうして手のひらを返すように讃える
人間の醜い集団心理。

ヒルダが人間を拒絶する理由も
わかるような気がしてしまう。

ヒルダを怪しいと感ずることが出来るのは、
…観念的な「団結」ではなく、
生活の智恵として身につけて来た
「協力」の必要性を知っている
一部の村人たちポトムやガンコじいさんです。

      「「ホルス」の映像表現」高畑勲

それでもなお、
ホルスは人は他人と一緒に生きるべきだと、
村に溶けこむべきだと信じ、
ヒルダの手をひいていく。

裏切られても、嘘をつかれても、
ホルスは日々、村で与えられた役目を
しっかり果たした。

その大きなやさしさはどこから
くるのかと思うけれど
ヒルダの呪いと同じ場所にある、
それもまた孤独からだと思う。
太陽の剣を何度も鍛え直すように
孤独の心は日々の健全さでしか
鍛えることはできないのだ。

誰かのために刺繍をしてお祝いをする、
おいしいものが手に入ったら嬉しい、
教わり、学び、誰かにお花を編んであげたい、

そんなことでしか善い心はきっと
鍛えられない。

ヒルダはあのあと刺繍を教わるのかしら、
お花も編めるようになって、
そうしたらきっとマウニにいちばんに
あげるのだろう、
あの赤いほっぺたのかわいいマウニに。

人間は醜く、善意は瞬間的に悪意に
なりかわる。
そんな世界であることをこの作品は
否定しない。
そこでどう生きていけばよいのか、
迷い、反発し、子どもは大人になっていく。 

でも、どんなに傷ついても傷つけられても
悲しい時に泣くことができて、
やさしい本当の歌を歌える方がいい、
それが私の答えとなる。
私の生まれ持った孤独もまた、そのために
存在する。

ヒルダの孤独とホルスの勇気が
その出発点となり、
「スタジオジブリ」のアニメーション、
ひいては日本のアニメーションに
続いていった。

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