側に。


映像スチール などの話。


何かが終わることが嫌いだ。
ずっと準備してきたイベント、春の桜、気に入っていた期間限定のメニュー、先輩の卒業、好きだったゲームのサービス終了、そしてたとえば、演劇。

イベントの準備も桜も、メニューも先輩も、ゲームも、演劇も、どれもすきだから、終わることはとても苦しい。

年明けに訃報が届いて、新幹線に乗った。
去年から、何かと死について考える機会が多くなっていた。
何も返すものが見つからない言葉や、手を伸ばしても届かないものに、やるせなさ、とでは言い表せないような、重いものを抱えていた。


でも、そうやっていろんなことが終わるからこそ、始まるものはある。世の中に溢れたコンテンツが変化するのは、発展でもある。わたしはそのうち大学を卒業して新しい場所に身を置くし、人間はいつか死ぬ。


無機物であれなんであれ、それが誰かにとってかけがえのないものであるのは事実で、わたし自身、かけがえのないものがおおすぎる。幸せで、それでいてすごく残酷な話だ。




ずっと 流れない時の中で
こんな世界に囲まれたいけど
いつか 失ってしまうのが
こわいものほど 美しい きっと

こんな歌詞もあるように、きっと終わりがあるからこそ生きている意味があるんだとも思う。

今わたしが演劇に打ち込めているのは、上演というゴール、そしてそれを踏まえての将来の目標があるからだし、いつか演劇をやめなければいけない日がくることもわかっているからだ。


3月下旬。

演劇公演の本番が、目の前に迫っている。
今日、わたしは客席から、稽古の様子や 舞台に用意された多くの美術道具をカメラにおさめていた。


映像スチール 。 わたしの生きがい。

がんばっているひとがすきだ。自分も勇気をもらえるから。だけど、わたしはいつももらっていてばかりで、何も役に立てていない。

もっと言えば、自分が所属している映像スチールという部署は、なくても良いのかもしれないと考えることもある。


映像スチールは、SNS用の写真や動画、記録用の映像を撮影、編集する部署だ。

失礼なことを言っているのはわかっている。映像スチール部に所属している他人に対して、無駄じゃん!とは思わない。多分これは、わたしの自己肯定感の問題であるし、自分の撮った写真や映像が、きっとどこかで役に立っていると信じたい時もある。

賛否両論あるし、そうじゃないと思う人がいることもわかる。

だけど、「わたしの問題」を踏まえて、わたしの考えとして、広報写真はあれば嬉しいし、配信映像もあれば嬉しいけど、でも。なくてはならない存在ではない、と思ってしまう。

そして、わたしは特別な才能やセンスがあるわけではないし、すごく努力をする主人公でもない。

制作の仕事は苦手だし、舞台美術の仕事もそうだし、とにかくわたしは、あまりにも役に立たない。

あと、写真も映像編集も上手くない。映像スチールという名前ほど、物理的な技術は持ち合わせていない。



公演を打つたびに、どうしたら良いのか、どうしたら誰かの役に立てるのか、何をしたら0.1を0.12とかにすることができるのか考えてきたし、試行錯誤をしてきたつもりだけど、まだ完全な答えはわからない。

映像スチールの役割は何か。
映像スチールとして、わたしができることは何か。

もちろん、大前提として、広報。(建前かもしらんけど。)

そして。まだ、考え途中だけど、でも、人に寄り添うことかな、と思う。

今のところ、映像スチールの役割は、例えばチケットの予約を管理するだとか、実際に舞台の上で演技をするだとか、そういった役割とは全く別のところにある気がしている。



演劇公演はいつか終わる。

公演日が決まっていて、最後の上演、千秋楽が約束されている。基本的に、全く同じメンバーで、同じ作品で、もう一度上演することは2度とない。

稽古があって、劇場で準備をして、千秋楽が終わってしまえば、そこにあった舞台美術は全て壊される。演劇は生物だから、形には残らない。演劇を上演する過程で、わたしたちの努力は、生きて、育って花を咲かせて、見えなくなる。

あのがんばってつくったかけがえのないものの形は、存在として消えてしまう。


それを残すのが、映像スチールなのだと思う。公演の映像にしかり、写真にしかり。

キャストはもちろん、つくられた舞台美術や照明、そして影で舞台を支えている全ての人たちに寄り添って、その努力を汲み取って、残すこと。
それだけを抱いて、わたしはカメラをかまえている。きっとその記録が、誰かのモチベーションになるし、誰かの努力をみとめることになると信じている。

役者や制作や舞台美術が上演に向けてお客様に寄り添うための部署であるなら、映像スチールは、そのカンパニーによりそう、裏方の裏方の部署だと思う。

以前、コンクールでも賞を取るような、大学で写真を学んだいるような…とにかくそんなすごい先輩にわたしの写真を見せたら、

「あたたかい写真。すごく距離が近いと思う。外部の人間が撮ったら、こうはならない。」

と言われたことがある。すごく嬉しかったし、わたしは上手い下手とか、カメラの良い悪いとかの前に、こういうことを大事にしたい。




千秋楽は、いつも苦しい。いつも泣いてるじゃんって、言われるくらいにはよく泣く。

だから必死に、映像スチールとして、終わりを誤魔化そうとしている。記録にして、努力や思い出を形にして、もうそこにはない演劇に、見て見ぬ振りをしている。まだきっとある、ここにあると、必死に縋り付いている。写真を見返して、結局また苦しくなってしまう。

ほんとうはやっぱり、終わりなんてきてほしくないのだ。



答えはわからない、出ていない、と書いたけれど、出したくないのかもしれない。このまま追求するのも素敵かもしれない。

わからないままでいたら、終わりだってこないかもしれない。

やっぱり、ほんとうは、願わくは。

ずっと期間限定のメニューを食べて、好きなゲームをして、お花見を毎日して、イベントも毎日やって、ずっと先輩や同期、後輩と一緒で。いつまでもすきなことを続けていたいな、と思っている。

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