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滅尽定と入滅とその関連(2)

◇滅尽定と入滅とその関連(2)◇

前回記事の続きです。

私とは、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に連なる識の連鎖として捉えることができます。
この識の連鎖という観点から見たとき、それは否応なく自動的に展開していきますから、そこには自由意志を含めて自我の存在も無いかのように感じられます。
しかし、だからと言って自我は無いと考えてしまうのは、私は間違いであり、大切な要素を見落としてしまうことになると考えています(かと言って、自我があると言うのもまた間違いなのですが)。

識の展開、自我の活動、どちらも幻ですが、私は、自我の活動が識の展開に大きく影響を与えているのではないかと考えています。
以前の記事で、各コマを構成するひとつひとつの識には、その識そのものを認識する自己認識機能が含まれており、それが自我の主体感覚の源泉であるということを書いたことがあります。
また、私という存在の重要な要素として自由意志がありますが、その自由意志は、私という存在をミクロに拡大して微小な識の展開として見たときは無いかの如く姿を消してしまうことも書いたことがあります。

私は、私という意識には二つの相があり、その各相の要素が互いに複雑に関係し、作用し合うことで、私という存在が成り立っているのではないかと考えています。
ここで、一つ目の相は通常の意識感覚の相であり、自由意志を認識できる相です。
もう一つの相は、私という存在を識の展開としてミクロに見たときの相です。
もう少し具体的に言いますと、自我の活動、特にその自由意志が識の展開に作用するということが、あるいはそのような構造が、上記の自己認識機能に加え、私という存在の極めて本質的な要素になっているのではないかと考えています。

一旦話を識の展開に戻します。

私は、パッ、パッ、パッと識が起こって来るとき、それを誘発する種のようなものがある可能性があると考えています。
その種に含まれるものとしては、一番分かりやすい例は囚われ(執着と言ってもいいです)です。
なぜなら、何か現象が起こってきたとき、その現象に関連する囚われがあれば、現象に囚われが反応して思考を誘発するからです。
その他、種には、記憶(あるいは、記憶のようなもの)も含まれます。

この種と識の展開との関係において、識の展開が継続するためには、識を誘発する種の供給、あるいは種へのエネルギーの供給を持続的に行う必要があるのではないかと、私は考えています。
この考えは、私自身が囚われを手放し、悟っていく、あるいは悟りを深めていく過程で感じた実感によるものと、悟りの行程に入る前の自分自身の様子を思い出して観察した結果によるものです。

多くの方々は、ジャングルジムのように絡み合った多数の囚われ(種)を握りしめており、起こってきた現象に対し、それに関連する囚われが連鎖的に反応し、無数の思考が誘発されます。
それが囚われの手放しが生じ始めると、起こってきた現象に反応する囚われが減ったり、囚われが薄くなり、それによって、囚われにより誘発される思考の量や強さも減少し、絡み合った囚われのジャングルジムが崩壊し始めます。
こうしたことから、私は、種によって無数の思考である識が誘発されることで、次回以降のコマの識を誘発する種を供給する、あるいは囚われを握り直すようにして種にエネルギーを供給するような作用が生じているのではないかと考えています。

さらに私は、識の連鎖が終わることなく延々と継続するのは、識を誘発する種の要素にその原因となるものが含まれているのではないかと考えています。
具体的には、上手く捉え切れないというか、表現できませんが、根本苦に対する衝動というか、性というか、囚われというか、そのような何かが種に含まれているのではないかと考えています。
そして、囚われに気づくことでそれが消失するように、解脱に伴い、種に含まれるそのようなものが消失するのではないかと考えています。
その消失により、識の展開は継続する原動力を失い、段々と勢いを失い、最後は肉体の死に伴って停止する可能性があるのではないかと考えています。


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