アクアリウム4

〜コンフォート世田谷 305号室〜

世田谷区の閑静な住宅街の一角に佇むマンションの一室で、両手両足を、イームスの椅子に縛り付けられている。
口にはガムテープを貼られ、声を出すことすら許されないようだ。
鼻からゆっくりと息を吸い込み、深呼吸を試みる。いささか落ち着いて、じっくり部屋の中を見渡すが、どこをどう見てもここは間違いなく退屈で平凡な、狭くも広くもない1LDKの、いつもとどこも変わらない自分の部屋である。
いつもと違うのはボーナスを叩いて買ったばかりのお気に入りの椅子に、家主である自分がきっちりと縛り付けられているという事実と、部屋の隅に見慣れぬ男が佇んでいるということだけである。
目鼻立ちのそれなりに整った精悍な顔つきの男が部屋の隅で嬉しそうな顔を家主に向けている。青年と中年の間位の年齢だろうか。自分と同世代にも見える。
一体どうしてこの様な事が起こったのか全くもって見当も付かない。
今日も仕事はさして忙しくも無く、かといって定時で上がれるような余裕も無く、1時間半程度の残業をこなして、いつも通りの電車に乗り込んだ。帰りがけに駅前でカレーを食べて帰って来たが、これも週に一度はあることで、家に帰って風呂やら一連の身支度をして床につけば、いつも通りのすなわち平常営業で本日の営業は終了の予定であった。
部屋の隅に佇む男は口元をニヤけさせながらも、ずいぶんと長い間無言でこちらを見ているだけである。
金目的だろうかと考えてみたが、この辺りは人口も多いし、大きな家も資産家も多く、かと言って独居老人も少なくは無い。
治安が良いためか、女性の一人暮らしだって多そうなのだ。
一応一流と言われる大手に勤めるサラリーマンではあっても、ここら辺ではさして収入も多い方ではない、あえて健康な男の家に押し入る意味なんてやはり見当もつかない。
この手枷足枷が何とか外れないものだろうかと体をくねらせて何度となくチャレンジしてみたが、どうにも手足が鉛の様に重く、覚束ない。
どんよりとした頭痛で頭もぼんやりする。

男は唐突に声を発した。
「さて、そろそろ頭もはっきりしてきた頃かな。まずお礼を言いたい。ありがとう。俺は何年もこの時を待っていたんだ。本当にありがとう、今日は人生最良の日だ」
男はゆっくりと歩いて自分の目の前にダイニングの椅子を置いて座った。目の前の男にとっては人生最高の日であり、自分にとっては人生最悪の日で間違い無い。
「君に危害を与えるつもりはない。また金銭目的でもないんだ。とある切符が必要だった。それも無事見つかった。本当にありがとう。こんな風に縛り付けて申し訳ない。万事平常に仕事を終わらせて、さっさと家に帰りたかっただけなんだ。分かって欲しい。怪我はないかな?」
男は立ち上がって、後ろに回る。
人指し指に何か金属の様な物が触れた。
目の前に戻った男は小刀を手にしている。
「ひぃやっ」
思わず鼻から声が出た。 男はしゃがんで顔を近づけて、じっくりと瞳を見つめてくる。
「命を無駄にしたくはないよな?」
力のこもった目をしながらもゆっくり淡々と感情のこもらない声で話す男には人間味が感じられない。
「な?」
口のガムテープが余りにもぴったりと張り付いてただ頷く事しか出来ない。
ボクサーパンツが汗でぐっしょりしていることに気が付いた。
「これから君にこの小型携帯を使って、外の仲間の質問に答えて貰う。嘘偽りなく全てに応えられれば、我々は君に危害を加える事なく、この椅子から解放し、退散する。もちろん金銭的な被害も一切ない。我々はある切符を使えるようにしたいだけなので。君はベッドでゆっくり朝6:00まで眠り、シャワーを浴びていつも通りの1日の始まりだ。今後一切、我々は君に関わるつもりは無い。もちろん君が会いたがるならば別だが。良いか?」
もちろん勢い良く頷く。
「それから、明日警察に話しても良いが、多分取り合って貰えないだろうな。なぜなら被害が無いんだ。我々は君を傷つけないし、金銭的な被害も与えない。明日はきちんと会社の定時に間に合うように出かけられる。まぁもし警察に話したら。実は警察にも伝手があるから、仲間には筒抜けだな。我々は信用してくれない奴が嫌いでね。君が警察に話すと、もしかしたら君の身の安全も保証出来ないかもしれない。俺の組織には残念な事に、俺と違って血の気の多い奴も結構いるんだよ。そう言えば鍬で身体中駆られて海に投げられた奴がいたなぁ。分かるだろ?」
目を瞑って大きく何度も頷いた。とにかくこの様な事態から何とか抜け出したい、その一心である。
「質問は実に簡単だ。ただ君にしか分からないものがほとんどだ。はいかいいえ、もしくは単語で簡潔に答える事」
目を開けて大きく頷くと、赤い光が目に入った。窓の外から何か光を照射されている事に気がつく。
「気が付いたか?大きな声を出すなよ?それから、嘘をついたり、間違えたり、関係の無い話をした時点で、外の仲間がお前の頭を吹っ飛ばす事になっている。分かるだろ?俺は平和主義なんだ。返り血なんて浴びたくない。慎重に答えろよ?焦らないことだ。さて、そろそろ口のガムテープを外そう。その前にゆっくり息を吐いて、小さく息を吸うんだ。吐いて、吸って。落ち着いたら質問を開始する。」

#小説 #長編小説 #アクアリウム

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