太郎
太郎は、両親からの異常なまでの期待を一身に背負って生まれてきた。彼の両親は周囲から「天才」とほめそやされて生きてきたため、いやにプライドが高く「私たちの遺伝子を受け継ぐ子が凡人なわけがない」と信じて疑わなかったのだ。
しかし、両親の考えとは裏腹に太郎は凡人だった。歩き始めたのも言葉をしゃべり始めたのも決して早くはなかったし、ごくごく平均的な普通の子供だった。
それを彼の両親は許すはずもなく、暴力をふるうようになるのは自然な流れだった。なんでこんなこともできないんだ。お前が悪いんだからな。そう罵倒し、彼の両親は彼を殴り、蹴った。もう彼には少しの失敗も許されなかった。
少しでも飲み物をこぼせば殴られ、ひらがなを書き間違えれば蹴り飛ばされた。その理不尽な暴力に、彼は必死に耐えた。こんな簡単なこともできないのは自分のせいなんだ。自分が悪いんだ。そう思い込むことで、彼は自分の心を麻痺させて過ごしてきた。彼にとっては、一つも失敗できない、息の詰まる生活がこの世界の全てだった。
太郎が5歳の時、弟の次郎が生まれた。その瞬間、太郎の世界は音を立てて崩れ去った。
次郎は、「天才」だったのだ。
彼は生後半年で歩き始め、8ヶ月で言葉を話し始めた。3歳までにはひらがなで自分の名前を書けるようになったし、6歳のころには九九を完璧に覚えていた。
そんな彼を両親が可愛がらないわけがなかった。次郎が望むものはなんでも買い与えたし、彼の誕生日には豪華な食事と大きなケーキが食卓を飾った。
そうすると、両親は次郎ばかりに構うようになり、太郎は無視され始めた。
最初のうちは暴行されなくなったことに安堵していたが、すぐに無視されることの辛さをひしひしと感じた。食事や洗濯など最低限の身の回りの世話はされていたが、それ以外は完全に無視。どれだけ話しかけても、どれだけ失敗しても、何も反応は返ってこなかった。
どうやら両親にとって太郎は、次郎という天才が生まれたことでどうでもいい存在になってしまったようだった。太郎の一挙手一投足に期待をし、絶望し、暴行という形で彼らなりのゆがんだ愛情を注いでいた両親は、自分たちの期待に応えてくれる次郎に持てる愛情の全てを注ぎ始め、太郎には見向きもしなくなった。
次第に、彼の心は孤独に押しつぶされていった。なぜ無視されるんだろうか。自分が普通だからいけないんだ。そう自分を責めつづけた。必死に耐えてきた。
しかし、ついに、彼の心が壊れてしまった。
なぜ無視されなければならないんだ。自分は何も悪いことなんてしてないのに。全部、全部あいつらが。あいつらが・・・。
みなが寝静まった丑三つ時、彼は一人台所にいた。彼の手に固く握られた包丁は月明かりに照らされていた。
「お前らが悪いんだからな。」
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