“〇〇の闇”という表現の浅さ
Twitterをのぞいていると、『〇〇界隈、闇が深すぎる……』というつぶやきをよく目撃する。
何が起きたんだ…?と思って探ってみると、大抵『界隈の著名人Aが不貞行為を働いた』とか、『著名人BとCが不仲で決裂した』とかそんな事案があるだけで、その界隈が全体でデカい問題を抱えている訳ではないことがほとんどだ。
簡単に言うと、特定のバカがやらかしただけである。
そもそも“闇”って何?
インターネットでよく用いられる“闇”という単語は、用途を見るにおそらく3番の「思慮分別のつかないこと」のニュアンスが1番近そうだ。
しかし、現在の”闇”という単語の使い方については、もっぱら『臭い物に蓋をする常套句』と化している。
そうだとしたら、7番の「世人の目にふれないこと」として扱おうとして”闇”という単語を使っているような気がする。
もっと言えば、『臭いものに蓋をしたうえで、見下してマウントを取って安心するために踏み台にするための宣言』だと私は思っている。
私はこの「○○の闇深すぎる……」という発言を見るたびに、『お前が知らねぇだけだろカス』と思う。
”【推しの子】”という漫画作品がある。
あの漫画は、いわゆる『芸能界の闇』というものに対して向き合い、詳らかにして打倒する、という作品である(と私は思っている)。
あの作品を読んだ(or観た)感想として「芸能界の闇を感じた」とか「芸能界こわい」みたいなことを言っている読者(視聴者)は何を読んでいた(観ていた)のか?といま一度問いたい。
一般的に”闇”と言われている、曖昧で混沌としたものであるという”概念化”してしまった芸能界というブラックボックスのふたをこじ開け、あたかも巨大な”何か”であるように形容されがちな芸能界もよくよく見れば結局は人間ひとりひとりの営みの集合体であるにすぎないことを”【推しの子】”は巧妙に表現していると思う。
同者が原作の”かぐや様は告らせたい”も、”富裕層”という我々一般人にとっては不可視の領域に対して『結局は人間なのだ』と引導を渡す作品だと考えている。
我々は知らないだけ。
知らないものを知ろうともしないで”闇”という曖昧なものとして処理し、埋蔵しているに過ぎないのである。
『○○の闇』とは、一種の思考停止なのだ。
何の倍数でもない素数に法則性が何もないように、”闇”という物質は存在しない、あくまで”光が当たっている場所”の補集合なのだ。
もう二度と”闇”という表現を使うな。私の前で。
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