『noteの投稿をサボる』という行為への罪悪感はどこ由来なのか

昨日、私はnoteの投稿をサボったのだが、それに対しての罪悪感というものがとてつもない。

昨日に関してはサボりたいからサボったという訳ではなく、単純に日付が変わるまでずっと忙しかった結果、noteを投稿しそびれたのである。

別に誰かに頼まれてnoteを投稿しているわけではないし、私のnoteを誰かが待ち望んでいるわけでもないので、一日noteを投稿しなかったところで、誰かが悲しむことはないし、誰かが怒ることもない。

というか、逆に私がnoteを投稿したところで、それを誰かが望んでいるわけではないので、誰も喜ばないし、誰もも得しないのである。

じゃあ何のためにnoteを投稿しているのか、ということについてだが、まあ当然『自己満足』の一言に尽きる。

自己満足といえど、私はnoteを投稿したからとてそれで満足感を得て、喜びにふけるのかというとそういう訳でもなく、noteを投稿して、その記事がいいね・コメントされて初めて喜びが生まれるので、完全に私個人で完結する自己満足ではないので、かなり面倒臭い趣味なのだ。


そして、表題の件に戻るのだが、私がnoteの投稿を怠って、何故私が失望しているのか、という感情の問題なのだが、これは一つの結論が私の中で出ている。

『ペット』だ。

私の中でnoteの毎日投稿とは『ペット』なのである。

毎日投稿をすると決めた去年の8月は、いわば親に「ちゃんと世話するんだね?」「勉強もしっかりやるんだね?」と詰められた日に感覚が近い。

私はペットを飼ったことが無いのでわからないのだが、多分"ポケモンSleep"でカビゴンに餌をあげるのを忘れることがよくある私にとって、ペットを飼うというのは恐らく至難の業なのであろう。

そんな人間が頑張ってやっているnoteなのだ。

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