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fetishismⅢ 声

聞いた瞬間、稲妻が走るとか、そういう衝撃的なものがあったわけではない。通話が終わったスマホをしばし眺める。名残惜しいのは、話している内容が楽しかったから、だけではないようで。
―――「ずっと聞いていたい」と思ったのは、どうやら初めてだった。

「イイ声」と「好きな声」が両立した瞬間である。

* * *

「イイ声」には、種類がある。
かっこいい声。きれいな声。かわいい声。
ただ、基本的に「特化」した声は、聞き疲れることが多い。だから、わたしに限った話かもしれないけれど、「イイ声」と「好きな声」は別物だと思っていた。

彼自身が言っていたけれど、「イケボ」と瞬間的に騒がれるような声とは違うと思う。瞬間的に騒がれる、というと要するにわたし的にいう聞き疲れる声なのだが、そういう声は得てして圧が強い。
彼の声はそういう声とは違っていて。
少し低めの、ほんの少し気怠そうな。でも、感情の起伏が出ると高くなって、低音から高音に跳ねるときに少しだけ裏返る。
その音域のすべてが、わたしの耳には心地よくて仕方がない。「イイ声」で「好きな声」。聞いていて疲れないのもあるけれど、ずっと聞いていたくて、もっと聞いていたくなって。耳がその声を拾わなくなると、淋しい、ような。物足りないような。

できるだけフラットに生きた方がいいんじゃないか、と彼が言っていた。
ハッピーがあるからアンハッピーがある。ハッピーがなければ、アンハッピーはないんだから。フラットに生きれば少なくともアンハッピーはないんだと。
確かにそうだなと納得した一方で、彼の声を知った自分のことを考えていた。わたしの耳はハッピーを知ったわけだ。彼の声を聴けないようになったら、それは。基本的に、加点方式で生きているつもりではいるけれど。あったら嬉しい。なかったらふつう。聴けないようになったら、それは、ふつう、に戻るだけだろうか。
みみがしあわせ。
呟いたわたしに、彼は意味が分からないと大笑いしていたけれど。

しばらくして、わたしは彼にひとつお願い事をした。
録音させてほしいと。
案の定爆笑されたけれど、わたしのスマホには少しずつ彼の声が増えていった。
会話の中の笑い声。
少しかすれた声。
甘さの滲む低い声。
テンションの上がった時の少し高い声。
音質の少し悪い、カラオケの歌声。
そのうち、彼が忙しくて連絡が取れない日に聞くようになった。好きなバンドの歌を聴くより、落ち着いた。

* * *

イヤホンから音が消えて、静寂が訪れる。
想定していたわけではないが、ある意味いずれそんな時が来るのを察していたのかもしれない。彼とほぼ連絡が取れなくなったのは、スマホに録音がある程度溜まった頃だった。
喫煙者のようだな、とぼんやりスマホを眺めた。喫煙者が禁煙した時に、飴を舐めるような。ガムを嚙むような。たまに連絡を取ると、声を聴くのに集中して少々会話の反応が悪くなっているのが自分でもわかるくらいだったけれど、気づかれただろうか。

アンハッピーを食い止める苦肉の策。会話を覚えきる前に、フラットに戻すべきなのかもしれない。
でも、もう少しだけ。
迷うように画面を撫でるだけだった指先で、再生ボタンをもう一度押した。





#声 #禁煙 #苦肉の策

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