そもそも聖書とは何か、宗教とは何か(どのようにして聖書は書かれたのか #01)

これから、「聖書という書物は、いったいどのようにして書かれたのか」について、長い長い歴史物語をつづっていこうと思います。まずは、聖書というのはいったいどういうシロモノなのかという基本的なところからはじめましょう。

聖書は今では一冊の本になっていますが、これは一人の人間によって書かれたものではありません。何百年もの間、さまざまな立場の人々によって、さまざまな目的で書かれた文書が、ひとつにまとめられたものです。今回の連載で扱うだけでも74もの文書があります。このうち39文書が「旧約聖書」と呼ばれ、8文書が「旧約聖書外典」、27文書が「新約聖書」と呼ばれています。

これらの74にも及ぶ文書集は、立場も、関心の持ち方も、考えていることも、人間の資質も互いにまるで異なる著者たちによって書かれました。ですから、当然ながら、聖書には矛盾や食い違いがたくさんあります。けれども、役に立ちそうなところや好きなところだけを抜きだしたり、矛盾がないようにごまかしたりしていては、ほんとうにこの本を読んだことにはなりません。全体として読んでいくしかないのです。

「(聖書のある個所と別の個所とで)相反するような立場が並べられているということは、聖書が全体として複雑な書物であることの、重要な一面です。さまざまなテーマについて、このことを指摘することができます。聖書で扱われているさまざまなテーマについて、一つの立場だけが主張されていると合点してしまうことは、聖書の全体を読もうとして目を配るならば、多くの場合だんだんとできなくなります。理解が進むと、あれこれと違った立場が、あちこちで主張されていることに気がつきます。勉強すればするほど、聖書について何も言えなくなる、ということになります。

加藤隆『旧約聖書』

ところで、「旧約聖書」「旧約聖書外典」「新約聖書」という分け方はいったい何なのか、そもそも何が「旧」で何が「新」なのかということですが、これについては、おいおい詳しく話すことになるでしょう。とりあえずごく簡単に言いますと、以下のようになります。

・旧約聖書とは「紀元前2世紀頃までに、古代のイスラエル民族によって書かれた文書集」
・旧約聖書外典とは「紀元前1世紀頃までに、古代のイスラエル民族によって書かれた文書のうち、後にユダヤ教の正典とされなかったもの」
・新約聖書とは「紀元1世紀から2世紀にかけて、後にキリスト教徒と呼ばれる一群の人々(イスラエル民族も非イスラエル民族も含む)によって書かれた文書集」

これらの文書集には、宗教書だけでなく歴史書、詩集や短編小説、ことわざ集、個人的な手紙なども含まれています。今では「旧約聖書」がユダヤ教の聖典、「旧約聖書+旧約聖書外典+新約聖書」がキリスト教カトリックの聖典、「旧約聖書+新約聖書」がキリスト教プロテスタントの聖典、ということになっています。(キリスト教正教会では、さらにいくつかの文書が聖典として加わります。)

さて、ここで、「宗教」とは何ぞや、という難題にふれておかねばなりません。宗教は、それを信じている人達にとっては「まったく正しいこと」ですから、たとえばユダヤ教徒にとっては「旧約聖書が正しいこと」であり「新約聖書は正しくないこと」となります。またキリスト教徒にとっては「旧約聖書も新約聖書も正しいこと」ですし、他の宗教を信じる者にとっては「どちらも正しくないこと」となるでしょう。しかし、私たちは、あくまでも「無宗教者」として聖書を読もうとしているわけですから、「何が正しいか、何が正しくないか」という視点はとりたくありません。もう少し距離をとって、宗教という現象を見つめてみたいと思います。

宗教とは何かということについては色々な考え方があると思いますが、私は経験上、以下の3つの在り方を基本にして見ていくと、宗教というものがすっきり分かるという実感があります。

①ヌミノース感情何らかの「聖なるもの」を体験した、と感じる感情のことです。日常では出会わないような「聖なるもの」に出会い、言葉では言い尽くせないような強い魅惑と畏怖を同時に感じることです。この「聖なるもの」を、ある人たちは「神」と呼び、またある人たちは「霊」と呼んできました。しかし、ここで問題にしているのは、そうした神や霊がじっさいに存在するのかどうかということではありません。ただ、そういったものを「感じる」こころのメカニズムはどんな人にも存在するのではないかということです。すべての宗教の根っこには、このヌミノース感情があります。こうした感情が実感としてまったく分からないという人は、なかなか宗教を理解することができないでしょう。

②権威による人集めシステム…ヌミノース感情を体験したとき、私たちは「権威」を感じます。つまり、自分よりも、あるいはどんな人間よりも優れたなにものかの存在を感じて、自然とその存在に従いたくなるのです。そして、この権威を利用して人々を従わせ、意のままに動かそうとする人たちが出てきます。その目的はさまざまです。賛同者集め、布教、連帯、覇権争い、金儲け、統治、戦争などなど。私たちが今は当然のものと思っている「国家」なるものも、はじめはこうして生まれたのでした。このような人集めシステム、組織作りシステムの一部というのが宗教の2つめの側面です。

③不条理を受け容れるための道具…この世には、人間の知恵や論理では理解しつくせないこと、納得できないこと、腑に落ちないことがあふれています。特に「老い、病、死、貧しさ、戦争」といった「不条理」は、私たちの想いなど気にもとめずに容赦なく振りかかって来ます。あるいは何不自由なく暮らしているような人であっても「自分は何のために生まれて来たのか」「結局死ぬのなら生きていたって無駄ではないか」と虚しい想いがして身動きがとれなくなることがありましょう。こういった時に、なんとかこれらの不条理を受け容れて、納得するための理論、というのが宗教の3つめの側面です。

以上の3つの側面が宗教にはあるということを、頭の片隅においておきながら、聖書がいかにして書かれてきたのか、そして、ユダヤ教・キリスト教がどのようにして誕生したのかをこれから見ていきましょう。

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