王制を求めるイスラエル社会の変化(どのようにして聖書は書かれたのか #21)

今回は、紀元前1100年頃から1005年頃までの話をします。

原イスラエルと呼ばれる部族連合がまとまりはじめたのが紀元前1200年代。そして紀元前1100年代の半ばには、前回お話しした「同じ伝承・同じ歴史観・同じ敵・同じ神」という4要素を共有するイスラエル民族が成立したと考えられています。しかし、あくまでも同じアイデンティティを共有する集団(=民族)が成立しただけであって、この民族をまとめあげる中央権力(=王)、あるいはその支配を支える社会システム(=官僚組織)はいまだ存在しませんでした。ですからイスラエル民族の各部族はそれぞれ独立して動いており、協力し合える時には部族間で協力し合うだけのことでした。このように「ゆるやかにつながった部族連合」というのが当時のイスラエル民族の実態です。王が民族全体を率いて戦っていたわけではありません。

さて、紀元前1000年代に入ると、イスラエル民族は「王制を導入するかしないか」をめぐる葛藤の時代を迎えます。周辺の他民族、たとえばパレスチナに都市国家群を建設していた先住民カナン人や、ヨルダン渓谷の東側に進出してきたアンモン人・モアブ人・エドム人などの間では、すでに王制が導入されていました。しかしイスラエル民族で本格的に王制が始まるのは、およそ紀元前1010年頃のことです。このように王制の開始が比較的遅くなった背景には、イスラエル民族の中で、王制を求める動きと、これに反対する動きとが相克していたという事情があります。今回はまず、王制を求める動きがどのように生じていたのかについて考えます。

そもそも王制とは、「いちばん偉い人」である王をリーダーとする中央政府(=宮廷)に権力を集め、この政府が部族間あるいは個人間のもめごとを裁き、また、部族を越えた王国全体の方針を決定して各部族をこれに(時には強制的に)従わせる、という政治体制のことです。イスラエル民族の中では、紀元前1000年代に入った頃から王制を求める声が強まり始めるのですが、その要因をいくつか見ていきましょう。

①人口増加に伴う居住地域の拡大
紀元前1200年時点での原イスラエルの人口は、考古学的調査によって約45,000人程度と推測されています。これが紀元前1000年頃になると約2~3倍ほどにまで増加しているそうです。このような人口の著しい増加に伴って、もともとはサマリア山地・ユダ山地の東側斜面に集まっていたイスラエルの居住地群は、西側斜面へと拡大していきます。西側は東側よりも起伏が激しく、農耕や牧羊には向いていません。やむを得ず生活条件の劣った西部へと居住地域を拡大せざるを得なかったのは、人口増加のペースに食糧生産が追い付かなかったからでしょう。この西側への居住地拡大の動きが、やがて、いわゆる「土地取得」につながったということは以前お話ししましたね。さて、起伏が激しい西側斜面で暮していくためには、森林の伐採、開墾、段々畑やため池の建設などによって地形を改善する必要があります。こうした作業を効率的に行なうためには個人や数十人の部族程度の集団の力ではどうにもなりません。地域の垣根を越えた共同作業が必要となり、また、その共同作業を指揮する指導者が求められます。これが王の原形です。

②交易の活発化
段々畑では主にオリーブや葡萄などの果樹栽培が行なわれますが、人間はオリーブ油や葡萄酒だけでは生きて行けません。そこで、他の農耕や牧羊を行なっている共同体と取引をすることで、穀物(小麦)や畜産物(乳製品・肉)を得る必要が出てきます。つまり地域間での分業化が進んだ結果、地域間の交易も活発となるわけです。こうなると経済は一気に発展します。農業生産そのものには関わらずに交易を主な仕事とする商人が登場し、市場が成立します。パレスチナはメソポタミアとエジプト、アラビアをつなぐ交易路(「海の道」や「王の道」)の中継地でしたから、こうしたルートを使う長距離交易に進出する者たちも現れていたかもしれません。さて交易が安全に行われるためには、市場や交易路を守るガードマン的存在が必要です。また、適切な商取引が行なわれるためには、ルール作り・裁定・罰則の適用を行なう権力も必要です。ここでもやはり地域の垣根を越えた中央権力が求められるようになってきました。

③ペリシテ人との戦い
紀元前1100年代、イスラエル民族の中にはサマリア山地・ユダ山地の西側斜面から、さらに西側へ、つまり、生活条件がよい平野部へと進出する部族も現われ、先住民であるカナン人とたびたび衝突するようになりました。これが「土地取得」というわけで、この過程で、民兵(ふだんは農業などに従事しながら、戦いになると動員されて戦う兵士たち)を訓練し、指揮する軍事指導者たちが登場し、彼らは「士師」と呼ばれたのでしたね。

さて、紀元前1000年代になると、イスラエル民族はカナン人に加えてペリシテ人たちとも戦うようになります。ペリシテ人というのは、紀元前1200年頃に地中海東岸一帯に進出した「海の民」のうち、エジプトへの侵入を阻止されてパレスチナの海岸平野に定着した人たちでしたね。彼らは紀元前1100年頃になると、ガザ、アシュケロンなどの都市を拠点にして、内陸部への進出を開始しました。こうして先住民カナン人、東の山地から来たイスラエル民族、海岸部から来たペリシテ人という三つ巴の争いの時代が始まります。

ペリシテ人は戦闘民族である「海の民」の末裔ですから、その軍事技術や戦略はカナン人やイスラエル民族よりもはるかに巧みでした。まず彼らは鉄の精錬技術を独占していたらしく、鉄を用いた武具を用い、重装歩兵・弓兵・馬で引く戦車隊を擁した強力な軍隊を有していました。その姿は『サムエル記』に出て来る巨人ゴリアテの姿に象徴されています。しかし、これらの強力な武器にも増して重要だったのは職業軍人(戦士階級)によって構成される常備軍の存在です。先述のとおり、イスラエル民族の戦士たちは民兵ですから、本業は農業や牧畜で、少しばかりの軍事訓練を受けた人たちばかりです。しかしペリシテ人には兵士を生業として、訓練と戦いに日々専念する職業軍人が存在しました。彼らは民兵よりも訓練されているだけではなく、本業に戻る必要がないため、たとえば占領地に拠点をつくって守備隊として駐留し、継続的な支配を図るといったこともできます。

このように強力で組織化されたペリシテ人の圧倒的な軍事力によってイスラエル民族は繰り返し打ち破られます。神ヤハウェによる加護をイスラエルに与えるものと信じられていた「契約の箱」というご神体のような象徴物さえ戦利品として奪われ、また、当時の聖所であったシロ(サマリア山地。シケムとベテルのちょうど中間ぐらい。現在のパレスチナ国Shiloh)も占領、破壊されました。「ペリシテ人に対抗するためには、我々も彼らのように職業軍人による強力な常備軍を持たねばならない」という声がイスラエル民族の中で高まることになります。

職業軍人たちによる常備軍を維持するためには、その俸給をまかなうために農耕民・牧羊民・商人たちからの徴税が必要です。そして徴税・貯蓄・分配を安全かつ効率的に行なう社会構造、すなわち王制による中央集権的な統治体制が求められたわけです。

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