「原イスラエル」から「イスラエル民族」へ(どのようにして聖書は書かれたのか #16)

今回は、紀元前1200年頃から1100年頃までの話をします。

これまでだいぶ長いこと、紀元前1400年から1200年頃までの話をしてきました。ざっと振り返ってみましょう。

まず紀元前1300年代の混乱したパレスチナで、行き場を失った牧羊民・農民・逃亡奴隷たちなどが内陸部の山岳地帯に住みつき、「原イスラエル」と呼ばれるゆるやかな部族連合を形成したのでしたね。彼らは「族長伝承」を共有することで、疑似的な血縁意識を持っていました。また、多神教信仰の中で主神として「エル」を崇拝していました。

紀元前1200年代になりますと、エジプトから脱出した数十人程度の逃亡奴隷たちが原イスラエルに合流します。これとともに「出エジプト伝承」と「ヤハウェ信仰」とが原イスラエルにもたらされます。出エジプト伝承は「奴隷からの解放物語」でして、これが原イスラエルの人々にとってたいへん受け容れやすいものであったということは、既にお話ししましたね。これからお話ししたいのはヤハウェ信仰がどのようにしてイスラエルに浸透していったかです。

「なぜ」浸透していったかは次回以降お話しするとして、今日は、ヤハウェ信仰によってイスラエルがどう変化したのかについて見てみましょう。

紀元前1100年代、ヤハウェ信仰は原イスラエル全体に急速に広がっていきます。もともとは別々の神であったヤハウェとエルも、次第に同じ神とみなされるようになっていきます。この過程で、前回説明しました「相互的な排他性」というヤハウェ信仰の特徴も、原イスラエル全体を対象とするものへと変化していきました。その結果、「ヤハウェはイスラエルだけの神」「イスラエルはヤハウェだけを崇拝する」というふうに、民族としての凝集性が一挙に高められました。

本来は雑多な出自を持つ人々による連合にすぎなかった原イスラエルは、ヤハウェ信仰の受容をきっかけに、だんだんと「ひとつの民族としての自覚」を持った集団へと変化していきます。この集団をイスラエル民族と呼びます。

しかしよく考えてみると、これは不思議な現象です。というのも、考古学的調査によると、紀元前1200年頃の時点で原イスラエルの居住地とおぼしき集落は250程度、人口にして45,000人程度であったと推測されています。これに対してエジプトからの逃亡奴隷たちはせいぜい数十人程度であったでしょう。これほど少人数の集団によるヤハウェ信仰が、100年程度の間に何万もの人々を一つに束ねあげて、民族としてのアイデンティティの根幹を形作ることなどあり得るのでしょうか。

ここで、今回の連載の参考にしている山我哲雄氏の『聖書時代史』に面白いことが書かれています。我々はこれと同じような例をほかに知っているというのです。それは初期イスラム教の歴史です。すなわち、ムハンマドを中心とした初期イスラム教徒たちは数十人程度でしたが、神アッラーを崇拝するイスラム教共同体は百年たらずのうちに急速な勢いで拡大し、小部族に分かれていたアラビア半島の人々をひとつにまとめあげ、「アラブ人」という一つの民族アイデンティティを確立したのです。これと同様のことがヤハウェ信仰とイスラエル民族についても起こったと考えてよいでしょう。

もっとも、ヤハウェ信仰がそれだけの影響力を持てたのは、それが強烈な神観念として原イスラエルの人々を大いに惹きつけたからに他ならないわけですが、その背景にはどういう事情があったのか。次回は、このあたりからお話ししましょう。

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