ヤハウェ信仰の始まり:アマルナ改革の遺産?(どのようにして聖書は書かれたのか #14)

今回も、紀元前1300年頃から1200年頃までの話をします。

これまで「出エジプト伝承」の成り立ちについて話してきましたが、実はその最も重要な部分にまだ触れていませんでした。それはこの伝承から生まれた信仰、すなわち唯一神ヤハウェに対する信仰です。

奇跡的にエジプト人の追っ手たちから逃れた逃亡奴隷たちは、これから灼熱の砂漠や荒野で生き抜いていかなければなりませんでした。彼らが逃げ出してきたエジプトというのは当時世界最先端の文化力・技術力・軍事力を誇っていた豊かな文明でした。しかし、もうそこには戻れないわけです。苛酷な環境の中でなんとか一致団結して生活していくより他にありません。

エジプトでは強大な神々を祀る神殿がそこらじゅうにそびえ、これらの神々によってエジプトの繁栄が守られていると信じられていました。奴隷たちもエジプト文明に属していた頃は、こうした神々の庇護下にあったわけです。しかし、逃亡奴隷たちは「反エジプト的」に逃げてきてしまったのですから、エジプトの神々はもはや自分たちを守ってくれません。

しかしながら彼らは、前回お話ししました通り、(少なくとも彼ら自身にとっては)神の奇跡としか考えられないような出来事を、その逃避行の中で体験していました。それゆえ、自分たちを奴隷身分から救い出してくれたことを感謝する対象として、また、文明世界に戻ることができない自分たちの安全と繁栄を祈る対象として、新たな神への信仰が芽生えたのはごく自然なことだったといえます。やがて、逃亡奴隷たちの中から現われた宗教指導者が、この神への信仰を支柱にして集団を束ねあげることで、荒野での放浪生活を乗り切っていったのでしょう。この神の名がヤハウェだったのです。

ここで思い出していただきたいのが、以前お話しした「アマルナ改革(紀元前1340年代から30年代頃)」についてです。当時のファラオであるアメンホテプ4世の指導のもと「多神教を排して唯一神アテンのみを崇拝しよう」という宗教改革運動が起こったのでしたね。ファラオの本音としては、多神教神殿の神官たちによる政治介入を排除したかったようですが、この改革運動に大真面目に参加した宗教指導者たちもいたことでしょう。しかし、この改革はファラオの死後すぐに頓挫し、エジプトは多神教へと戻ります。そしてかつての唯一神信仰は「反エジプト的」なものとして葬られてしまいました。

後にヤハウェを信仰するようになる奴隷たちが逃亡したのは、このアマルナ改革の失敗から約100年後のことです。もちろん改革の時代を生身で体験した人々は生きていなかったでしょうが、一神教の伝統が一部の宗教指導者によって細々と受け継がれていた可能性はあります。そして、この「反エジプト的」一神教が、同じく「反エジプト的」存在になってしまった逃亡奴隷たちに何らかの影響を与えた可能性も否定できません。もちろん、どの程度の影響だったのかはわかりません。おそらくは、なんとなく唯一神という概念のみが伝わっていた、という程度のものだと思いますが。

さて、ここで気になるのが、出エジプトにおける宗教指導者モーセです。まず、モーセという名前がエジプト系であることは確かです。ただし非エジプト人がエジプトで暮らす際にエジプト系の通名を名乗ることは珍しくなく、これだけでモーセがエジプト人であったとはいえません。しかし、出エジプト伝承の冒頭に記されたモーセの出自に関する物語はなんとも意味深長です。それは「彼は「本当は」イスラエル民族の子であったのだが、なんやかんやでエジプトの王族に拾われてエジプト人として育てられた」というものです。この「なんやかんや」の部分がかなり作り話めいているため、この物語自体も後の創作だと思われるのですが、だとするとどうしてこんな創作が生まれたのでしょう。どうも、モーセは「本当は」エジプト人だったのではないかと考えてみたくなります。だからこそ、後に出エジプト伝承がイスラエル民族によって共有されていく過程で、「モーセは「本当は」イスラエル民族の血を引いていたんだ」というフィクションが付け足されたというわけです。

まあしかし、モーセにまつわる物語はみな伝説めいたものばかりですから、彼は実在した人物というよりは、伝承が継承されていく過程で生まれた一種の象徴的存在と考えたほうがよいかと思います。では何の象徴かといいますと、逃亡奴隷たちの中にいたエジプト系の人々、あるいは非エジプト系であってもかなりエジプト社会の影響を受けていた人々の象徴です。もしそうだとすると、モーセの出自についての物語は「彼らはエジプト人として育てられたとはいえ、本当は逃亡奴隷たちの仲間なんだよ」と言っていることになります。また、モーセが逃亡奴隷たちの宗教指導者として活躍する出エジプト伝承の筋書きは、「エジプト系の人たちが一神教的な考え方によって逃亡奴隷たちを精神的に支えた」ということを示唆しているのでしょう。そこに、アマルナ改革以来の一神教から何らかの影響があった、と考えるのもあながち無理ではありません。もちろん「絶対に影響があった」と言い切ることもできませんが。

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