無宗教者は、聖書をどのように読むべきでしょうか

あくまでも無宗教者の立場から「聖書」という書物を1章ずつ読んでいこう、と思い立ってはじめたこの連載ですが、少し前から一つの壁にぶちあたっておりました。それは、この「聖書」という書物の「背景」について、自分には知らないことが多すぎるということでした。ここで「背景」といいますのは、つまり、この本は「どんな人によって書かれたのか」「どんな時代に書かれたのか」「どんな読者にむけて書かれたのか」「どんな文化の影響を受けているのか」といったことです。こうした背景をしっかりとおさえずにただのテクストとして文章を読む、というのは、とても虚しいことではないかと思われてきたのです。

もちろん、そうした背景についての知識がこりかたまって思い込みや偏見に変わると、目がくもってしまいます。背景知識だけを語って作品を分かった気になるような人間にはなりたくないものです。この連載でも、キリスト教界隈の「常識」や神学的な「正しさ」からは、徹底して自由でありたいと思っています。

しかしまた、たとえば絵画において背景や地があってこそ図が活きてくるのと同様に、また器があってこそ料理が活きてくるのと同様に、文学においても背景をしっかり見据えてこそ、テキスト本体を深く味わうこともできるように私は思います。

願わくば、そうした背景知識を、まるで眼鏡のように、つけたりはずしたりできればいいなあと思います。つまり、まずは作品そのものを味わい、その後で、しっかり背景を見据えたうえで再び作品を読みこむ、そしてまた背景のことを忘れて虚心坦懐に味わう、というふうに、柔軟にピントを変えながら多層的に味わいたいのです。もっとも、この味わい方は、文学に限らずすべての芸術について、いや、この世に存在するありとあらゆる人やものと接するときに必要なことだと思います。それは、単なる味わい方というよりは敬意のようなものかもしれません。自分の愛する対象の「ありのまま」をもっと知りたいという思いが、背景についての好奇心を突き動かすのです。

もうひとつ、考えることがあります。たとえばなんの背景知識もないまま「ありのまま」の何かと接するとき、私たちは本当に「ありのまま」を見られているのでしょうか。むしろ無意識のうちに勝手な思い込みをしていることがよくありますね。そういう時、私たちは自分がかけている眼鏡に気付いていないのです。しっかりと背景知識を学ぶということは、同時に、「世の中にはいろいろな眼鏡がある」と気づくことでもあります。「ありのまま」を見ることがいかに難しいかを知ってこそ、より「ありのまま」に近づくことができるように思うのです。

というわけで、ここ最近は聖書の著者や時代背景についていくつかの本を読んでいました。そうして、私にもぼんやりと聖書という書物の「背景」が見えてきましたので、ここにそれをまとめていこうと思います。時系列にそって、聖書はどのようにして書かれたのか、という視点から書いてみようと思います。

今回参考にしたのは、以下の文献です。より詳しくお知りになりたい方は、ぜひ読んでみてください。
山我哲雄『聖書時代史:旧約篇』 佐藤研『聖書時代史:新約篇』
田川建三『書物としての新約聖書』
旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書』15巻本のそれぞれの巻末解説
新約聖書翻訳委員会『新訳聖書』5巻本のそれぞれの巻末解説
田川建三『新約聖書:訳と註』8巻本のそれぞれの巻末解説
日本聖書学研究所『旧約外典』2巻本のそれぞれの解説

最後に、「聖書をどう読むか」ということについて3つ引用を紹介します。私は、このように、聖書を読みたいと思うのです。

 書物をどのように読むかは、読者の自由です。しかし旧約聖書は、二千年以上も前の、さまざまな歴史状況において記された文書の集まりです。たとえば、聖書に書いてあることは、すべて「善」であり「正しく」、そしてすべてが現代に生きるわたしたちに役に立つ、というようなことを前提にする立場があります。こうした立場では、聖書のテキストの重要な意義が見失われてしまいます。「役に立ちそう」なところばかりに接するということで、聖書全体に接していると考えてしまいがちです。聖書は、部分的に読んで、それを利用すればよい、というものではありません。全体を読むことは難しいことですが、全体を理解するように読む努力をしなければ、聖書の意義は見えてきません。

加藤隆『旧約聖書』

信仰がなければ、真に聖書を読むことはできない、あるいは信仰がない者にはイエスは分からない、という意見がある。そうした声は、いつも信仰者の側から発せられる。果たしてそうだろうか。
 聖書を読み、魂を震わせた人は、キリスト教信者の何倍も存在している。信仰が聖書読解における不可欠な条件であるなら、聖書とは限られた人々に向かってのみ記された言葉の集積に過ぎなくなる。
 だが、キリスト教が生まれたとき、世界は、キリスト者以外の人々で満ちていた。福音書は、異教徒のためにも書かれたのではなかったか。福音書に描かれているイエスは異邦人を招く。彼自ら異邦人の中に行く。信仰を、聖書に近づく絶対条件にしようとする論理は、かえって福音書の精神をゆがめているように感じられる。

若松英輔『イエス伝』

 新約聖書と呼ばれてきた書物は、本当はもちろん「聖書」ではない。こんなことは、誰でもよく知っているはずのことである。人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点もかかえて生きている、その人間が書いた文章が、「聖書」、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。人間が書いたものは、あくまでも人間の歴史の記録である。まず、誰でも知っているこの事実を正直に確認することからはじめるのでなければ、我々は、歴史上「聖書」と呼ばれてきた文書集の実態を正確に理解することはできないのである。
 人間はそれぞれの仕方で限界のある存在である。だから、人間を「聖」の水準に持ち上げてはならない。人間を「聖」の中に閉じ込めてはならない。これを「聖書」に仕立てたのは、自分たちの組織に絶対的な権威を付与したいと思い続けてきた古代末期以降のキリスト教会のやった作業である。彼らは自分たち自身を絶対的な権威に仕立て上げたかったので、それで「聖なる書」を必要とした、というにすぎない。それだけのことなら、「聖書」はあなた方の教会の壁の中に閉じ込めておけばよろしいのだが、そうはいかない。これは人類古代の貴重な文化遺産なのである。だからこれは、あなた方の所有物ではないし、あなた方が勝手に私物化してよいものでもない。それはすべての人々に、余計な粉飾なしに、ありのままの姿で、公開されないといけない。だから我々は、ここで、新約の諸文書を教会の壁の外に解き放って、多くの読者の方々が普通に読み、普通にその実態にふれることのできるような姿で、提供することにした。ここにあるのは、後一世紀、まだキリスト教なるものが固定的な形をなしていなかった時代に、何らかの形でキリスト教にかかわった人々によって書かれたさまざまな文書を集めたものである。
 (…中略…)
 要するに「新約聖書」とは、後一世紀のさまざまに異なるキリスト教文書を集めた文書集、という以外の定義を下すことはできないし、その定義で十分である。また、後一世紀に書かれたキリスト教文書はこれ以外には残っていない。しかし古代の宗教の草創期に当事者たちが書いた記録がこれだけ大量に残っているのだから、希有の幸いと言わねばならない。これは我々にとって非常に貴重な歴史資料なのだ。人間の知性にとって重要なことは、自分たちの歴史の現実を歪めずに正確に認識できることである。 

田川建三『新約聖書 本文の訳』「はじめに」

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