無宗教者なのに、聖書を読むべきでしょうか

「聖書」はキリスト教の聖典とされています。しかし私たち無宗教者にとっては一冊の不思議な本にすぎません。「聖」でもなんでもありません。何千年も昔に生きていた名もなき人々が、一生懸命に書いた古ぼけた本です。もちろん一冊の娯楽作品として楽しむこともできますが、しかしこんなものよりももっと面白い小説や詩はたくさん世の中にあるでしょう。それでも、無宗教者として聖書を読むべきなのでしょうか。

もちろん、読むべきだと私は思っています。まずはじめに誰もが納得する理由をひとつあげましょう。聖書は基礎的な教養だからです。教養、というと、なんだかお高くとまった感じがするかもしれませんが、しかしたとえば映画「ロッキー」や「ターミネーター」などという娯楽作品でさえ、聖書に基づく考え方を知っていなければ、しっかりと味わうことはできません。ましてや西洋の文学作品や哲学・社会思想、絵画、映画、演劇、ありとあらゆる文化と学問を知ろうとするならば、聖書を避けて通ることはできないのです。ビートルズを一度も聞いたことがない人間がロックを語っていたとしたらどうでしょう。手塚治虫を一度も読んだことがない人間が日本の漫画を語っていたとしたら。

「自分は、日本の文化と、日本の思想と、仏教と神道にしか興味がないから、聖書など読まなくてもよい」という方がいらっしゃるかもしれません。たしかに日本で育まれてきた多くの優れた文化を味わいつくすだけでも、私たちの人生はあまりにも短すぎるのですから「聖書など読んでいるひまなんてない」という気持はよく分かります。しかしながら私は、西洋文明のいちばん奥底にある聖書という書物と真剣に向き合えないような人間は、日本の文化を自分のものとすることもできない、と思っています。

たとえば外国語を真剣に学んだことがある方ならば、外国語を学ぶことによって初めて日本語の性質について深く理解することができたという経験がおありだと思います。あるいは外国に一度でも行かれたことがある方ならば、外国の風土を感じてみて初めて日本の風土の特徴に気付くことができたはずです。言ってしまえば、一つの言語しか知らない人間は、実は一つの言語も知らないのです。また、一つの国しか知らない人間は、実は一つの国も知らないのです。そして、日本の文化にしかひたったことがない人間、「聖書」という異文化に足を踏み入れたことがない人間は、実は日本の文化さえもじっくりと味わうことができていないのです。

さて、以上述べて来たことは、おそらく多くの人たちによって納得されるものだと思います。こうした理由によって、聖書を手にとってくれる方が増えてくれるならば、とても嬉しいことではありますが、しかし「無宗教者として聖書を読む」という行為には、もう少し深い意味合いがあるようにも思いますので、以下に書き連ねてみます。

私は無宗教者です。神も、仏も、来世も、復活も、信じません。宗教を迷信として、ファンタジーとして理解しています。もし神仏や天国のようなものが本当に存在するのだとしても、それは私たちの頭ではとうてい理解できることではないのですから、「私はこれこれというものを信じている」と言い張るためには、どうしたって自分に嘘をつくことになります。だから、私は拝みません。何ものに対しても祈りません。人間同士の愛と共感、理性と相互理解だけを信じています。神という後ろ盾がいなくても、すべての人間が自分らしく生きられるような世の中を目指すことはできます。たとえ神がいなくても、この世界は生きるに値するのです。人間は「宗教」から解放されることによって、いちだんと人間らしく生きることができるのだと思います。

しかし私は同時に、宗教を頭ごなしに軽蔑する人を軽蔑します。たしかにあらゆる宗教は、おぞましい悪にも手を染めてきました。人を殺し、権力と結びつき、人々の理性をゆがめ、愛を分断してきました。しかしまた同時に、宗教が多くの善いことをしてきたのも事実です。宗教がなければ、私たちの社会は、もっと荒れ果てたものになっていたでしょう。私たちはかつて、宗教に頼らなければならないほどに弱い存在だったのです。

無宗教者のなかには、宗教のなかでも最も強い力をもった「キリスト教」に強い嫌悪感をおぼえる方も多いでしょう。キリスト教とそれに支えられた欧米諸国がこれまでにしでかしてきた悪行の数々、あるいはそのうさんくさく偽善にまみれた教義と布教と集金のことを考えてみれば、その嫌悪感はまっとうなものだと思います。しかしそのようないっときの拒否感情に流されてしまって、キリスト教と真剣に向き合おうとしないのであれば、「いったいなぜあのような一見馬鹿げた迷信が、あれほどたくさんの人びとを惹きつけてきたのか」ということは分からずじまいです。

「宗教は民衆のアヘンである」という有名な言葉がありますね。しかしなぜ民衆がアヘンを必要としていたのか、その背景にどんな生きづらさや苦しさがあったのか、アヘンのいったいどのような性質がそこまで人を惹き付けたのか、アヘンを広めることで一体だれが得をしていたのか……ということを考えずに、ただ麻薬中毒者たちを馬鹿にするだけでいいのでしょうか。アヘンを悪と決めつけて、世の中から消し去ったとしても、私たちはまた新たなアヘンに頼るだけなのです。つまり、アヘンを必要となるような社会を改善し、アヘンの代わりに、私たちの心のすき間を埋めてくれるような、もっと健全な何ものかをこの地上に見出さなければいけないのです。

そうでないと、私たちは同じ過ちを繰り返すことになります。宗教を軽蔑しながらも「宗教的な」生き方にとらわれてしまうのです。有名人の発言や自己啓発本にとりつかれ、特定の思想にこりかたまり、常識という名の権威をふりかざし、人に対して偏見を持ち、見知らぬ人からの承認を求めつづけ、嫌いな人を悪と決めつけて、金や肩書を拝みたおし、権力にひれふす。美しい自然や芸術や学問を、そのままに楽しむ心の余裕もない。目の前にいる誰かを、その人自身として見つめることもできない。たとえ私たちが宗教を無事にこの世から消し去ることができたとしても、「宗教的な生き方」が人間の柔らかな心を押しつぶしていくこの状況は、なにも変わらないでしょう。私たちは今でも、「宗教的な生き方」にすがらなければならないほどに弱い存在なのです。

だからこそ、現代に生きる私たちには、大切な使命があるのです。それは「自分の目と自分の頭で」かつての宗教を真剣に研究してみることです。宗教を毛嫌いもせずに、ありがたがりもせずに、ただ自分の心と頭とを一生懸命に使って、誠実で正しいと思われることを探究するのです。そして、なぜ宗教が人を惹きつけたのか、なぜ人間の糧となるものがそこにあるのか、あるいは、過去の遺物として捨て去るべき部分はどこであって、後世に引き継いでいくべき部分はどこであるかを探ることによってのみ、私たちは本当の意味で、宗教から解放されるのです。

これは決して簡単な作業ではありません。私たちのような無宗教者は、もはや宗教や伝統的な共同体が失われてしまった地点に生きています。私たちは「宗教の破片」を拾い集めることから始めなければなりません。たくさんの本を読んで、しかしそれを信じ込むことなく、自分の頭で考え続けなければなりません。たえず人と対話し、柔軟に心をはたらかせねばなりません。

「聖書」は、この大変な作業の題材にするには、打ってつけの書物だと、私は思っています。それで「無宗教者として、聖書を読もう」と言っているのです。聖書ほど、多彩でバラエティーに富んだ内容を持った書物も少ないでしょう。美しい言葉、優しい言葉、力強い言葉、畏怖を感じる言葉、わくわくする言葉、戦慄すべき言葉、どうでもいい言葉、幼稚な言葉、汚らしい言葉、毒を持った言葉……ピンからキリまで、ごちゃまぜに満ち満ちています。宗教からの解放うんぬんと言っている私でさえ、なにやら神のような何ものかの存在を感じてしまうような、そういう箇所もあります。こころがガクガク震えることがあります。しかし私はそのたびに、神の存在を信じるのではなく、そうした偉大で超越的な存在を描き出すことのできる人間の「こころ」というのはなんて素晴らしいのだろう、と思うのです。

私は断言しますが、聖書は、教会の壁の中だけに閉じ込めておくには、あまりに勿体ないほどの、素晴らしい書物なのです。人類にとっての貴重な財産なのです。この財産を祖先から受け継いだことに感謝し、私たちの子孫に受け継ぐためにも、この書物を、じっくり読んでみましょう。その時々に、私の記事を、少しでも参考にしていただけるならば、とても嬉しいことです。

無宗教者こそ、ぜひいっしょに、聖書を読みすすめましょう。

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