今回は、紀元前730年頃から700年頃までの話をします。
即位してまもなく北王国の滅亡(紀元前722年)を目の当たりにした南王国のヒゼキヤ王は、しばらくはアッシリア帝国に服従して属国としての地位に甘んじていましたが、ひそかに独立する好機をうかがっていました。紀元前713年、エジプトの支援によりペリシテ人の都市国家群がアッシリアに反乱を起こすと、ヒゼキヤ王はこれを支援します。が、すぐに手を引いたようです。反乱はアッシリア王サルゴン2世によって鎮圧されました。
いずれアッシリアが南王国にも兵を向けると考えたヒゼキヤ王は、来たる攻城戦にそなえます。エルサレムに水を引き入れるための地下水路も開削しました。さらにエジプトや、当時反アッシリア運動の中心となっていたバビロニアとの外交関係を深めます。国内では、かつて父アハズ王が設置したアッシリア式の祭壇や、異教的な要素を神殿から取り除きました。宗教的にも政治的にもアッシリアへの従属を拒否する姿勢をとろうとしたのです。
紀元前705年、アッシリア王サルゴン2世が死に、センナケリブが後を継ぐと、これを好機と見たヒゼキヤ王はバビロニアと共にアッシリアに反乱を起こします。しかし、アッシリア軍の圧倒的な力の前に反乱は圧殺されてしまいます。紀元前701年、センナケリブはシリア・パレスチナに遠征し、エルサレムを除く南王国全土を占領しました。パレスチナは荒廃し、多くの難民がエルサレムに押し寄せました。エルサレム陥落も時間の問題かと思われましたが、ここで突如アッシリア軍は撤退し、すんでのところでエルサレムは命拾いすることになります。
旧約聖書によると「天使がアッシリア軍をやっつけた」そうですから、アッシリア陣中で疫病が流行って攻城戦どころではなくなり撤退したのかもしれません。しかしながら、アッシリア側の記録では「ヒゼキヤ王がアッシリアに莫大な貢ぎ物を納めたので、軍を引き揚げた」とされています。つまりヒゼキヤ王は反乱を諦め、再びアッシリアの属国になることを選んだようです。
このセンナケリブ王による侵略以後、アッシリア帝国は南王国を属国としつつも、あえて滅亡にまで追い込むことはしませんでした。その背景には、エジプトとの間に緩衝地帯を設けたいというアッシリア側の思惑があったようです。すなわち、南王国を滅ぼして、その領土を編入してしまいますと、いよいよエジプトと国境を接することになり、否が応でも緊張が高まります。それよりは両国間にいくつかの小国を緩衝国家として存続させることを選んだのです。南王国の周辺にあるアンモン、モアブ、エドムといった国々も、おそらく同様の理由でアッシリアの属国とされています。
さて、今回はこの時代に活躍した2人の預言者の預言集について紹介しましょう。