センナケリブの来寇:第一イザヤ書・ミカ書(どのようにして聖書は書かれたのか #39)

今回は、紀元前730年頃から700年頃までの話をします。

即位してまもなく北王国の滅亡(紀元前722年)を目の当たりにした南王国のヒゼキヤ王は、しばらくはアッシリア帝国に服従して属国としての地位に甘んじていましたが、ひそかに独立する好機をうかがっていました。紀元前713年、エジプトの支援によりペリシテ人の都市国家群がアッシリアに反乱を起こすと、ヒゼキヤ王はこれを支援します。が、すぐに手を引いたようです。反乱はアッシリア王サルゴン2世によって鎮圧されました。

いずれアッシリアが南王国にも兵を向けると考えたヒゼキヤ王は、来たる攻城戦にそなえます。エルサレムに水を引き入れるための地下水路も開削しました。さらにエジプトや、当時反アッシリア運動の中心となっていたバビロニアとの外交関係を深めます。国内では、かつて父アハズ王が設置したアッシリア式の祭壇や、異教的な要素を神殿から取り除きました。宗教的にも政治的にもアッシリアへの従属を拒否する姿勢をとろうとしたのです。

紀元前705年、アッシリア王サルゴン2世が死に、センナケリブが後を継ぐと、これを好機と見たヒゼキヤ王はバビロニアと共にアッシリアに反乱を起こします。しかし、アッシリア軍の圧倒的な力の前に反乱は圧殺されてしまいます。紀元前701年、センナケリブはシリア・パレスチナに遠征し、エルサレムを除く南王国全土を占領しました。パレスチナは荒廃し、多くの難民がエルサレムに押し寄せました。エルサレム陥落も時間の問題かと思われましたが、ここで突如アッシリア軍は撤退し、すんでのところでエルサレムは命拾いすることになります。

旧約聖書によると「天使がアッシリア軍をやっつけた」そうですから、アッシリア陣中で疫病が流行って攻城戦どころではなくなり撤退したのかもしれません。しかしながら、アッシリア側の記録では「ヒゼキヤ王がアッシリアに莫大な貢ぎ物を納めたので、軍を引き揚げた」とされています。つまりヒゼキヤ王は反乱を諦め、再びアッシリアの属国になることを選んだようです。

このセンナケリブ王による侵略以後、アッシリア帝国は南王国を属国としつつも、あえて滅亡にまで追い込むことはしませんでした。その背景には、エジプトとの間に緩衝地帯を設けたいというアッシリア側の思惑があったようです。すなわち、南王国を滅ぼして、その領土を編入してしまいますと、いよいよエジプトと国境を接することになり、否が応でも緊張が高まります。それよりは両国間にいくつかの小国を緩衝国家として存続させることを選んだのです。南王国の周辺にあるアンモン、モアブ、エドムといった国々も、おそらく同様の理由でアッシリアの属国とされています。

さて、今回はこの時代に活躍した2人の預言者の預言集について紹介しましょう。

第1イザヤ書
イザヤは紀元前740年頃から700年頃まで、シリア・エフライム戦争の頃からセンナケリブ王による侵略の頃まで、エルサレムで活躍した預言者です。死後、彼の預言が弟子たちの手によってまとめられたものが、現在残る『イザヤ書』のうち1~39章(=第1イザヤ書)の原形となりました。

イザヤは、以前の禍いの預言者たちと同様に、社会的不正や異教的要素を非難し、ヤハウェ信仰への立ち帰りを勧めますが、これに加えて、近い将来もたらされるであろう救済への希望についても語ります。すなわち、今はアッシリアに脅かされているイスラエル民族にも、いずれヤハウェによる救済と平和がもたらされるだろう、というのです。だからこそ「救済されるにふさわしい民となるために、今のうちに罪を悔い改めよ」と説きました。

こうした文脈で「メシア」にも言及します。メシアとは、当時一部の人々の間で、その出現が期待されていた「理想的な王」のことです。直訳すると「油を注がれた者」という意味ですが、これはイスラエルでは伝統的に、王や高位の祭司の即位に際して「神がその者を聖なる者として選んだ」ということを象徴的に示すために、その頭に油を注ぐ儀式が行なわれていたことに関係しています。イスラエル民族がアッシリアによる侵略に苦しめられるようになった頃から、「そろそろ神はかつてのダビデ王のような偉大な王、すなわち「第二のダビデ=理想的な王=メシア」を遣わして、イスラエル民族に勝利と栄光をもたらしてくれるはずだ…」という、なんとも悲しい信仰が広がっていました。

これに応じてイザヤも、メシアの登場を預言します。イザヤは現実のダビデ王朝には失望していましたが、その一方で、いわゆる「ダビデ契約思想」、つまり、神によって選ばれたダビデ王朝が永遠に続くということを信じていました。ですから、ダビデの血筋からメシアが輩出するはずだ、と考えていました。(旧約聖書に出て来る「メシア」という語はすべてこのような「理想的な王」を指します。これが新約聖書が書かれた頃になると「この世の終末にやって来る救世主」という意味に転化します。)

なお、イザヤは南王国の外交政策についても多く意見を述べています。異教の国々に頼ったりせずに、ただヤハウェのみに拠り頼め、というのが彼の一貫した主張でした。シリア・エフライム戦争に際しては親アッシリア政策に反対し、ヒゼキヤ王の反アッシリア運動については他国との共謀を理由に反対します。単にヤハウェ宗教に固執していただけなのかもしれませんが、案外鋭く外交の現実を認識しており、南王国が二大国の緩衝地帯となりうることを見すえたうえでの意見だったのかもしれません。

さて、イザヤの厳しい断罪の言葉は、かえって民の反発を招きました。いきなり「気持ちを入れ替えよ!」などと糾弾されても、そんなに簡単に悔い改められるものではありませんから、被害者意識をつのらせるだけの者も多かったようです。あるいは「どうせ自分たちは罪人なんだから、さっさと赦してくれ」という他人まかせな信仰を持つ者もいました。しかしイザヤによると、神による赦しはそう簡単に与えられるものではありません。「まず自分の罪深さに絶望し、高慢さを捨ててヤハウェへの信仰に立ち帰った時はじめて、人はその罪を赦されるだろう…」という、いわば悪人正機説のような複雑な信仰を説きましたが、なかなか理解されませんでした。懸命な預言活動にもかかわらず、自分が思った通りに悔い改めてくれない民の頑迷さに接して、イザヤは次第に絶望の色を濃くしていきます。

後期のイザヤは救済やメシアへの希望を失っていき、来たるべき大きな禍いについて預言するようになります。また、「頑迷預言」と呼ばれる、半ば絶望に似た疑念を口にするようにもなります。すなわち、自分は民を悔い改めさせようとして預言活動をしてきたつもりだったが、実は、「民がよりかたくなになって悔い改めないため」にこそ自分の預言があったのではないか、そのためにこそ神は自分を預言者として選んだのではないか…というのです。センナケリブ王による侵略の混乱の中、イザヤは興奮した民によるリンチを受け、虐殺されます。皮肉にも頑迷預言が成就したことを悟りつつ、絶望の中で死んでいったのです。

(なお、第1イザヤ書には黙示録と呼ばれる部分がありますが、これは後世の加筆とされています。そこには、この世の終末に神による最後の審判がくだされ、善い人と悪い人との運命が分かたれる…といった終末思想が書き込まれています。) 
「行け、そしてこの民に語れ、『お前たち、繰り返し聞け、だが理解してはならない。お前たち、繰り返し見よ、だが認識してはならない』、と。肥え鈍らせよ、この民の心を。彼の耳を重くし、彼の目を閉ざせ。彼が彼の目で見、彼の耳で聞き、彼の心で理解して、立ち帰って癒されることのないためである。」(イザヤ 6:9-10)

ミカ書
ミカは、イザヤとほぼ同時代に活躍した預言者ですが、エルサレムにいたイザヤとは違い、地方出身者としての視点を持っています。戦争で荒廃した故郷を逃れてエルサレムに亡命してきたミカは、上流階級に対して、その罪、すなわち社会的不正や弱者への抑圧を痛烈に非難します。そして、いずれ神が裁きを下し、南王国と首都エルサレムは滅びるだろう、と預言しました。鋭い審判預言の合間に、ところどころ救済預言が挟みこまれていますが、これは後世の付加と言われています。
「エルサレムのかしらたちは賄賂を取って裁きを行ない、その祭司たちは代価をもって教え、その預言者たちは金を取って占う。しかも彼らは、ヤハウェに拠り頼んで言う、『ヤハウェは我々の内におられるではないか、我々に災いが及ぶことはない』と。それゆえ、あなたがたのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは廃墟となり、神殿の山は茂みに覆われた高き所となる。」 (ミカ 3:11-12)

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