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弥勒物語No.54【小説】

「音夢、ランドセルがとっても似合ってるよ!」

「そう、パパ」

「音夢にこんな日が来るなんてパパは夢を見てるようだよ」

 音夢は今日から小学生になる。赤いランドセルがよく似合っている。愛娘にこんな日がやって来ようとは……。まるで極楽にいる様な気分である。僕はデレデレ顔を隠すことができなかった。

「パパー、学校に行く前に最後に抱っこしてよ」

「よしよし」

 ほらっと言って音夢を抱き上げる。

「えへへ、パパ大好き」

「ほら、学校に行く準備しなさい。もう時間ですよ、あなたもそういつまでも娘にデレデレしない!」

 はい……、と言って渋々、娘を床に降ろす。

 僕は音夢の写真をカメラで何枚か撮った。

「ああ、ママ。僕は一生分の感動を貰ったよ。これで何の悔いもなく涅槃に入れるよ」

「ばか」

 チカはコツンと僕の頭を叩く。こんな幸せな日はもうやってこないのだろうか……。残念で仕方がない。

「音夢は今日から新入生になるんだから、友達は百人は作って来なさい」

「……ママはたまに不可能なことを言います。そんなこと絶対に無理なのです」

「全く、パパに似てシャイなんだから。そんなんじゃ一年生になってもやっていけないのよ?」

「そんなあー」

「ママ、あまり音夢を困らせないで……ほら、もう時間だよ。音夢、急ぐよ!」

「うーん、パパ大好き」

「全く、ミロクは女たらしな所が全然、治ってないな!」

 ……。

「ママ〜、女たらしってなあにー?」

 僕、何か悪いことでもしたでしょうか。結婚して以来、一度もチカを怒らせない様に気を付けていたと言うのに……。

「チカ、それでも、愛しているよ」

「うん……あなた」

 あ、そうだった。音夢に渡すものがあるんだった。

「音夢、これを付けていきなさい」

 僕は音夢に腕に付ける数珠を渡した。

「これなあにー?」

「数珠だよ、これは音夢を守ってくれるものなんだ。大切にお守りの様にいつも腕に付けているんだよ」

「なんだ、パパとママが付けてるものと同じものか」

「なんだとはなんだ、音夢。いいかい? これには不思議な呪文が込められていてね」

「般若心経でしょ」

「……うん」

 般若心経について音夢は、音夢なりに分かっている様だ。まあそれは仏堂で毎日、唱えているのだから当たり前か……。

 あ、そうだ。一番大切なことを伝えるのを忘れていた。

「音夢が信号機の前に来たらどうすればいいのかな?」

「こう!」

「すごいな! 音夢は。もう施無畏印せむいいんができるのか。さすが僕の娘だ!」

「ただ、右手を上げただけじゃないの……」

「おんあろりきゃそわか」

 気のせいか……、僕の耳からなんとも言えぬ妙音な真言が聞こえてきた。
 
 ……。

 ??

「あなた……」

「音夢? 今のは何? もう一度、言って見てくれるかな?」

 音夢はもう一度、唱えてくれた。

「おんあろりきゃそわか」

 これは観音様の真言だ。一体どういうことだ? まだ教えた覚えはない。音夢にはこれからゆっくりと教えようとしていたのに……。

「音夢? それをどこで覚えてきたんだい?」

「夢の中で……観音様が……」

「……」

 僕は放心状態となり、床に崩れ落ち、しばらく動くことができなかった。チカが心配してくる。だが僕はそれ以上に音夢の将来を心配するのだった。


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