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弥勒物語No.55【小説】

「行ってらっしゃい、音夢」

「はーい、ママ」

 音夢が新入生になって、数日が経った。

 僕は、まだ音夢が夢の中で観音様と会話ができるという事実を受け止められないでいた。

「あなた、いつまでもそんなことを気にしないの」

「だって、僕が若い頃に出来ていたことをこの歳で自然にやっているんだぞ。そりゃ心配になるよ……しかも観音様の真言なんて、ああ……」

「仏教の申し子ってことでしょ? いいじゃないの仏様にお預けすれば。悪いようにはなされないわよ」

「でも、僕は音夢にはもうちょっとのんびり成長して欲しいんだよ」

「大丈夫、今からちゃんと仏教を学ばせれば、不幸なことは家には起こらないわ」

「なんでそんなことが分かるんだよ」

「あなたと私がいるもの。大丈夫よ」

「そうか、うん……それもそうだな」

「でも、これは今から色々叩き込んでおいた方がいいだろうなあ……」

 ……音夢には今から仏教を学ばせた方がいい。僕は観音様に祈るように合掌した。

 そして、僕はある覚悟を決めていた。仏教を一から学び直そうと思ったのだ。どんな歳になっても初心は大事にしなくてはならない。

 僕は気がつくと仏堂に籠っていた。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。

 僕は坐禅を組んだ。お経を唱える勤行を行い、今日のお勤めを終えた。

 そして、音夢が帰ってきた。

「パパーただいま」

「おかえり、音夢」

 でも、やっぱり可愛い。こんな小さな子に仏教の才能があるなんて誰も気が付かないだろうなあ。

「音夢、今日はお話があるんだ」

「なあに、パパ?」

「仏教をやってみないか? 音夢」

 とは言っても、僕は音夢にそんな難しいことを教えるつもりはなかった。簡単な合掌や坐禅だけをさせようとしていたのだ。

 音夢はしばらく悩んだ素振りを見せていたがすぐに答えを出してくれた。

「いいよ、観音様もやってもいいって」

 え?? もしかして……。

「音夢は観音様とお話しができるのかい?」

「うん……いけないことだった?」

 ……なんてことだ。この子は仏教の天才なんだ。

「いや、それは素晴らしいことだ。音夢はきっと仏様たちから愛されているんだよ。自信を持っていい」

「うん!」

「ママ、音夢が仏教をやるらしいよ。これは今から楽しみだ。ゆっくりと、ゆっくりと精進を積ませよう」

 ーーこの子が将来、大勢の人たちから愛されますように。

 その日から音夢の仏教が始まった。

「音夢、この御方が観世音菩薩様だ。人々の苦しみを取り除いたり、お願いを聞いてくださる仏様なんだよ」

「夢の中で出てくる、観音様は色々な姿になって現れてくれるよ。これが観音様なんだね」

「そうなんだ、この仏様は人々の想いや姿に応じて、三十三の姿に変身される。つまり、音夢に合わせてくださっているんだよ」

「なるほどです……」

「それで、音夢の夢の中での観音様はどんな姿をされていたかい?」

「お母さんみたいだった、それでパパは若い頃に大変な苦労をしたんだって話していたよ」

「うん、それは間違いなく観音様だ」

「じゃあ、簡単な坐禅を組んでみようか」

 ……。

 音夢を、どうかお守りください、観音様。

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