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シリーズ「戯曲の切れ端Vol.2」

 今作は2012年の年末に名古屋で行われた「ミソゲキ」という演劇イベントで出品しました。その当時は「おなかのそれよりも前」というタイトルでしたが、この度「切れ端」として公開するにあたってタイトルを「コンテニュー」に変更しました。

 振り返って読んでみると「幼女X」(2013年初演)の基盤となった作品であることがわかります。ひとつのアパートという点では「うまれてないからまだしねない」(2014年初演)の遺伝子も持っています。プロジェクターを使って文字を投射し俳優と共存させたのも今作がはじまりだったように記憶しています。
 一般的に演劇は話し言葉(パロール)を中心に構成しなければならない、と思われていますが、はたして本当にそうなのでしょうか? 演劇の中に書き言葉(エクリチュール)を存在させることはできないのでしょうか? 共存させることができないのならば、それはこの世界の複雑さや豊かさをそのまま(抽象して)表現することが演劇にはできないことの証明になってしまう。という演劇に対する疑問や危機感のようなものをこの頃強く持っていたように思います。この世界には「話し言葉」もあれば「書き言葉」もあれば「心の中の言葉」もあるはずで、言葉を扱う演劇が、その言葉のバラエティを無視して上演していくことがなんだか許せなかったのです。
 もう10年も経ちますか。25歳の僕、お疲れ様。その頃から辞めるつもりなどさらさらなかっただろうけど、辞めずに10年後もやってるよ!


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